✍温聲筆記✍

温又柔が、こんな本を読んでいる、こんな文章に感銘を受けた、と記すためのブログ

ミサイルよりもこわい

メモ。「憎しみに憎しみで対抗することは、自身を変えることであり、憎む者たちがなってほしいと願う人間に近づくことだ。憎しみに立ち向かうただひとつの方法は、憎む者たちに欠けている姿勢をとることだ。つまり、正確に観察すること、差異を明確にし、自分を疑うのを決してやめないこと。こういった姿勢によって、憎しみは次第にひとつひとつの要素に解体されていく。そして、一過性の感情をイデオロギー的前提とは分けて考えること、憎しみがそれぞれの歴史的、地域的、文化的文脈のなかでどのように生まれ、育っていくのかを観察することが可能になる」(カロリン・エムケ)

きゃー、こわいこわいこわい。ミサイル飛ばしてきて、こわい、こわいよねあの国、こわいでしょ、こわいこわい、と煽られているのがどうにもわかってしまうせいか、私は少なくとも今のところ、ミサイルなんかこわくない。

それよりは、こわいこわいあの国こわいあの国こわいから自衛のために軍事費つかってもいいよね、ね、ね、、、みたいな態度のこの国の政府の方が、よっぽどこわい。

それよりもさらにこわいのは、きょうみたいな日に、最近寒くなったよね、とでも言い合うのと同じ調子で、ミサイルこわいね、と眉をひそめ合うのがほぼ唯一の「正解」みたいなシチュエーションに、思いがけず巻き込まれてしまうことだ。なんて言えばいい? はぐらかす。ずるいよね。

逃げよう。しばらくは誰にも会いたくない。昔とても親しかった人や、深い付き合いではないものの、楽しい時間を何度も分かち合ったことがある人。会えば必ず笑顔で雑談をし合う人。誰一人私、嫌いたくない。ましてや、軽蔑などしたくない。みんな心根の優しい、普通の人たちなんだから。それに、私の勘違いでなければ、きっとみんな私をいい人だと思ってくれている。

「憎しみに賛同し拍手する者から、自分は正しいという確信が奪われるだけでも、なにが変わるかもしれない」(カロリン・エムケ)。

もしも、憎しみが、自然に生まれるものではなく、意図的に作られるものであるのなら、なぜそれがつくられるのか、暴き続けたい。私にそれが、多少でもできるのなら。これはおそらく私に課せられたちょっとした責任でもあるのだから・・・でもやっぱり、こわい。私をいい人だときっと思ってくれている人たちに”冷や水”を浴びせるのはこわい。彼女や彼に嫌われたくない、というよりは、私が彼や彼女のことを、嫌いたくない。その意味では、誰かのことを嫌うよりも、誰かに嫌われることの方が、私にとっては楽なのだろうか?

今日の源:カロリン・エムケ著、浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』(みすず書房、2018)