✍温聲筆記✍

温又柔が、こんな本を読んでいる、こんな文章に感銘を受けた、と記すためのブログ

いつかは私のオリーブを。

 メモ。「あんまり淋しいものだから、さほどの昔ではないけれど、あるとき虫歯の穴を詰めてもらって、医者のやわらかい手の先でそっと顎の位置を変えられたら、こんな優しいことがあったのかと切なくなり、うぐっと呑み込んだような声が出て、目に涙があふれてきた。(「大丈夫ですか、キタリッジさん」と医者に言われた。) 」エリザベス・ストラウト『オリーブ・キタリッジの生活』より。

 ジュンパ・ラヒリの翻訳者でもある小川高義さんのお名前にまずは惹かれて、そしてこの文庫本の装幀のたたずまいを信じて、軽い気持ちで読み出した『オリーブ・キタリッジの生活』。別々の時期に発表した短篇を、オリーブというあまり人に好かれない一人のご婦人の半生を軸に一つの長篇として編み上げられたこの小説。小川さんの訳者あとがきにしたがって、冒頭から一篇ずつ、順番に読み進めてゆくうちに、まんまと"小さな破裂"が生じ、この本はこの作家は、私のこれからの人生にとって必要不可欠なのだと確信する。

 だから、忘備録としても。2026年夏、私は、とんでもなく好きな小説と、また出会えたようなのだ。このひとが書いたものなら、読めるものがある限りひとまずみんなみんな読んでおきたい、と腹の底から欲する作家が、目の前にあらわれたのだ。そう、とっくの昔に読んでいてもおかしくはなかったはずが、うっかり知らずのまま今まできてしまった。エリザベス・ストラウトの、そんな遅れてきた新たな読者である自分自身に、今、ちょっと浮かれてる。まるで、十代の子どもや、若い学生のように。さしづめ、ニューヨークにいるクリストファーに会いにいくオリーブが飛行機のなかで真っ青な空と、新緑の大地を見ながら「希望とは何だったのかを思い出した」ような心地なのだ。いくつ歳を重ねようとも、こんなことがあるということがたまらなく嬉しい。さらに白状してしまえば、ああ、こういう小説をこそ、私は書いてみたいんだよなあ、としみじみ思わされてもいる。近頃ますます書くことと読むことは私の中でひとつながりになっている。畏れ多くも、言ってみたくなる。いつかは私も、私の「オリーブ・キタリッジ」を書けるかな。書きたいや。

ひとまず、次は、『バージェス家の出来事』を読む。

 相変わらず、小説に救われてばかり。小説を書き読む日々は、最大公約数の人々がこうあって欲しいと望んでいる真実をいかにも真実らしく見せかける物語ばかりが横行するこの世界を、あるがままには受け入れたくない、といつもダダをこねている私を決して絶望させない。

私はこの世界といつまでも知り合いたい

ヤン監督の長篇映画はわずか七本なのだけど、そのうち、唯一、未鑑賞だった『海辺の一日 That Day, on the Beach  海難的一天』をようやく観られて、感無量。まさに、「エドワード・ヤンのビッグバン」(濱口竜介)。のちの作品群の、萌芽が全篇に亘ってそこかしこで煌めいている。一つの映画を観ている以上の、とくべつな感慨を抱いてしまった。ごく個人的には、決して長くはないキャリアを駆け抜けるように、一篇、また一篇と書き遂げた李良枝のデビュー作「ナビ・タリョン」を再読するたび、こみあげてくる何かによく似たものを疼かせながらの、至福の167分間だった。

youtu.be

映画の終盤、ある登場人物が「僕は心からこの世界ともう一度知り合いたい」「まるで世界が僕の傍で甦るかのようだ」と呟くのを目撃しながら、唐突に、涙がでた。ほんとうに、思いがけずに。そして、こういう不意打ちの涙を、うっかりとこぼさせるのがエドワード・ヤンなのかな、と思った。この世界に、エドワード・ヤンが遺してくれた7本の長篇映画が存在していてよかった、と心から思う。観るたびに思う。これからも上映されるたび、必ず映画館にでかけよう。

『海辺の一日』を観ている間、ひょんなきっかけから数年ぶりに夢中で読み耽っている中上健次の長篇小説『地の果て 至上の時』にでてくる、台湾に生れニューヨークに住んでいるチェンという人物が何度かよぎった。この映画は、ぜんぜん、チェンのようなひとたちの物語ではないにもかかわらず。

『海辺の一日』と『地の果て 至上の時』はどちらも1983年に発表された

日本に行く台湾人や、台湾人と出会う日本人が身を置く「1980年」前後の、東アジアの時空間についても、想像が掻き立てられた。小説や映画は、私の現実を多層にする。いや、よき小説やよき映画と出会えるたびに私は、現実は私が自力で感知する以上に多層なのだと思いだす。『地の果て 至上の時』を読む前は、アリス・マンロー『ジュビリー』を読みながらそう感じていたのだし、数日前まではキム・ヘジャとソン・ソック主演のドラマ『君は天国でも美しい』を毎日ボロ泣きしながら見ていた影響もあって、自分の心を昂らせる極上のフィクション作品の、ちょっとした細部と細部が、ここで生き、ここでものを考え、思い、感じる私自身の現実と地続きになってる感じ、まだまだ続く。

それにしても、ヤン監督の映画の題名の多くが、英語と中国語とで意味がいつもちょっとずれているのが、ほんとうに、たまらなく好きだ。

My Dear Country

6月23日。「国旗損壊」という、禍々しい名の法案が、与党の自民党をはじめ、「日本人ファースト」を謳って、支持を広げた参政党を含む4党によって提出されたのは数日前。胸がざわめく。ノーマ・フィールド『天皇の逝く国で』の、とりあえず「Ⅰ」の部分だけでも、と再読する。

「国旗を、敬え」が「国家を、愛せ」となり、ついには「国のために、生きて死ね」となる前に。そうなる前に、そうさせる前に、私たちには考え得ることがたくさんある。思考を、止めないで。自戒をこめて。

 

ここが戦場ではなく、戒厳令下でもないのなら。

むやみやたらと真っ二つになりたがるこの世界で、右にも左にも落下するまいと狭い平均台をそろそろ歩く心地でしょっちゅう過ごしている。”天と地の間に吊り下げられた”と喩えられる状態で、混乱を讃えるという態度を眩しく思う私は、いつまで正気を保てるのだろう? ここが戦場ではなく、戒厳令下でもないのなら、どうか私がこれからも、それを語れと推奨する時の政治に無批判なまま、嬉々として何らかを語る、という快感に溺れずに済むように。

『新潮』2026年7月と『霧のごとく』映画パンフレットより。

むろん、それを語らねば他のありとあらゆる言葉も根こそぎ奪われるという事態に陥ったのなら、わからない。

李良枝を想う日

何度も木蓮の前に立った(…)木蓮の木は同じ場所に、同じ美しさを保ちながら立っていた。

持つ者、持たざる者、

支配者、被支配者、

強者、弱者、

できる者、できない者、

…………。

この二項対立を超え、突きぬける論理は、この世にはないのだろうか。

私は、数知れないほど木蓮に向かって問いかけた。いつ刈り倒され、その幹、枝が傷つけられるかも知れないのに、生殺与奪をすべて他にゆだね、沈黙を感受している木蓮の木に、まるでとりすがるような思いで問い続けた。

李良枝、「木蓮によせて」より。

5月22日は李良枝の祥月命日。あなたが切り拓いた美しきこの獣道。いまも私、自前で編みあげたニホン語という杖を支えに、あらゆる二項対立を超えたくて、ヨタヨタ歩き続けています。あなたが遺してくれたものに触れるたび、私は、私が手にしたこの”命綱”を、もっと信頼しなければと力が湧くのです。

www.hakusuisha.co.jp

 

「彼女は書いたが、しかし……」

メモ。「作者の特異性を理由にその作品の評価をおとしめる行為とは、異常性にかこつけての作家の行為主体の否定となんら変わりない」(ジョアナ・ラス)

ジョアナ・ラスの『テクスチュアル・ハラスメント』。小谷真理さんの論考も!増補新版。初めて読む!トリン・T・ミンハをお守りにしていたころの私は、なぜこんな重要な本を見逃していたのだろう! 私の場合、「性」だけが理由ではなくおそらく「国籍」や「出自」などとも絡み合いながら、「こういうのは、一生に一作は誰でも書ける」あるいは「さあ、お手並み拝見。本当の実力を見せてもらおう」「いつか日本人だけが出てくる小説も書けるようになったら認めてもいい」といったことを、エライ!人たちから仄めかされるたび、自分はこの言語共同体のメインの書き手たちとは、何か重要なバックグラウンドがすぽんと違うことを多かれ少なかれ意識させられた。もちろん、そう意識することは、私の筆力の土台にあってしかるべき思考力を鍛えることにもなったけど。「彼女は書いたが、しかし……彼女は書かなかった」。白状すれば私はこの帯の文章だけですでにもう、何かただ事ならぬ、穏やかならぬ親近感を抱く誘惑に抗し難くなっている。心して読もう。

inscript.co.jp

 

女の子の運命

巷で話題の『みぃちゃんと山田さん』。怖いもの見たさで試しに読んでみたら、噂以上の不穏さだった。賛否が吹き荒れるのが、痛いほどわかる。ここに描かれているのは、まぎれもない、誰か=みぃちゃんの"リアル"な生き様だ。こうとしか生きられない、ひとりの人間=みぃちゃんの壮絶なリアルに怖気づき、時々目を背けたくなりながらも、下世話な好奇心もあいまって、この"覗き見"を、もはや途中でやめられなくなっている。

増田こうすけ以外の新刊漫画を買ったの、何年ぶりだろう。

最後には殺されることが決まっているみぃちゃんの命は、誰に、どう奪われるのか。みぃちゃんできることなら生き延びて、とも、みぃちゃんさっさと死んで楽になれ、とも、みぃちゃんは殺されても仕方ないよ、とも思いたくなるようなストーリーの運びに、まんまと囚われてゆく。

未完なため、判断するには時期尚早かもしれないが、"性産業"に絡め取られた女たちの過酷な生き様や業の深さを、決してきれいごととしてではなく、容赦のない現実として、生々しく描いた作品群という並びでは、曽根富美子さんによる、かの世紀の傑作『親なるもの断崖』を彷彿させなくもない。

不朽の名作。表紙を久しぶりに見ただけで、もう泣きたくなる。

あるいは、2010年代を風靡した『アラサーちゃん』の作者・峰なゆかさんの自伝的傑作『AV女優ちゃん』にも、少なくとも内容の次元では匹敵し得る内容だと思う。

峰なゆかさんは、ほんとうに唯一無二の存在!

とにかく、完結にむかって、物語はどう疾走してゆくのか? 楽しみだと感じているこの気分じたい、ひどく不穏だ。この漫画が話題になればなるほど、"みぃちゃん"という言葉が一人歩きし、そのせいで、”みぃちゃん”呼ばわりされる人たちやその家族が、理不尽に傷つけられることがないようにとせめて祈りつつ。

 

ちなみに11話分までは無料で読めるようです!↓

pocket.shonenmagazine.com