
ヤン監督の長篇映画はわずか七本なのだけど、そのうち、唯一、未鑑賞だった『海辺の一日 That Day, on the Beach 海難的一天』をようやく観られて、感無量。まさに、「エドワード・ヤンのビッグバン」(濱口竜介)。のちの作品群の、萌芽が全篇に亘ってそこかしこで煌めいている。一つの映画を観ている以上の、とくべつな感慨を抱いてしまった。ごく個人的には、決して長くはないキャリアを駆け抜けるように、一篇、また一篇と書き遂げた李良枝のデビュー作「ナビ・タリョン」を再読するたび、こみあげてくる何かによく似たものを疼かせながらの、至福の167分間だった。
映画の終盤、ある登場人物が「僕は心からこの世界ともう一度知り合いたい」「まるで世界が僕の傍で甦るかのようだ」と呟くのを目撃しながら、唐突に、涙がでた。ほんとうに、思いがけずに。そして、こういう不意打ちの涙を、うっかりとこぼさせるのがエドワード・ヤンなのかな、と思った。この世界に、エドワード・ヤンが遺してくれた7本の長篇映画が存在していてよかった、と心から思う。観るたびに思う。これからも上映されるたび、必ず映画館にでかけよう。

『海辺の一日』を観ている間、ひょんなきっかけから数年ぶりに夢中で読み耽っている中上健次の長篇小説『地の果て 至上の時』にでてくる、台湾に生れニューヨークに住んでいるチェンという人物が何度かよぎった。この映画は、ぜんぜん、チェンのようなひとたちの物語ではないにもかかわらず。

日本に行く台湾人や、台湾人と出会う日本人が身を置く「1980年」前後の、東アジアの時空間についても、想像が掻き立てられた。小説や映画は、私の現実を多層にする。いや、よき小説やよき映画と出会えるたびに私は、現実は私が自力で感知する以上に多層なのだと思いだす。『地の果て 至上の時』を読む前は、アリス・マンロー『ジュビリー』を読みながらそう感じていたのだし、数日前まではキム・ヘジャとソン・ソック主演のドラマ『君は天国でも美しい』を毎日ボロ泣きしながら見ていた影響もあって、自分の心を昂らせる極上のフィクション作品の、ちょっとした細部と細部が、ここで生き、ここでものを考え、思い、感じる私自身の現実と地続きになってる感じ、まだまだ続く。
それにしても、ヤン監督の映画の題名の多くが、英語と中国語とで意味がいつもちょっとずれているのが、ほんとうに、たまらなく好きだ。











