6月23日。「国旗損壊」という、禍々しい名の法案が、与党の自民党をはじめ、「日本人ファースト」を謳って、支持を広げた参政党を含む4党によって提出されたのは数日前。胸がざわめく。ノーマ・フィールド『天皇の逝く国で』の、とりあえず「Ⅰ」の部分だけでも、と再読する。

「国旗を、敬え」が「国家を、愛せ」となり、ついには「国のために、生きて死ね」となる前に。そうなる前に、そうさせる前に、私たちには考え得ることがたくさんある。思考を、止めないで。自戒をこめて。
6月23日。「国旗損壊」という、禍々しい名の法案が、与党の自民党をはじめ、「日本人ファースト」を謳って、支持を広げた参政党を含む4党によって提出されたのは数日前。胸がざわめく。ノーマ・フィールド『天皇の逝く国で』の、とりあえず「Ⅰ」の部分だけでも、と再読する。

「国旗を、敬え」が「国家を、愛せ」となり、ついには「国のために、生きて死ね」となる前に。そうなる前に、そうさせる前に、私たちには考え得ることがたくさんある。思考を、止めないで。自戒をこめて。

むやみやたらと真っ二つになりたがるこの世界で、右にも左にも落下するまいと狭い平均台をそろそろ歩く心地でしょっちゅう過ごしている。”天と地の間に吊り下げられた”と喩えられる状態で、混乱を讃えるという態度を眩しく思う私は、いつまで正気を保てるのだろう? ここが戦場ではなく、戒厳令下でもないのなら、どうか私がこれからも、それを語れと推奨する時の政治に無批判なまま、嬉々として何らかを語る、という快感に溺れずに済むように。

むろん、それを語らねば他のありとあらゆる言葉も根こそぎ奪われるという事態に陥ったのなら、わからない。

何度も木蓮の前に立った(…)木蓮の木は同じ場所に、同じ美しさを保ちながら立っていた。
持つ者、持たざる者、
支配者、被支配者、
強者、弱者、
できる者、できない者、
…………。
この二項対立を超え、突きぬける論理は、この世にはないのだろうか。
私は、数知れないほど木蓮に向かって問いかけた。いつ刈り倒され、その幹、枝が傷つけられるかも知れないのに、生殺与奪をすべて他にゆだね、沈黙を感受している木蓮の木に、まるでとりすがるような思いで問い続けた。
李良枝、「木蓮によせて」より。
5月22日は李良枝の祥月命日。あなたが切り拓いた美しきこの獣道。いまも私、自前で編みあげたニホン語という杖を支えに、あらゆる二項対立を超えたくて、ヨタヨタ歩き続けています。あなたが遺してくれたものに触れるたび、私は、私が手にしたこの”命綱”を、もっと信頼しなければと力が湧くのです。

ジョアナ・ラスの『テクスチュアル・ハラスメント』。小谷真理さんの論考も!増補新版。初めて読む!トリン・T・ミンハをお守りにしていたころの私は、なぜこんな重要な本を見逃していたのだろう! 私の場合、「性」だけが理由ではなくおそらく「国籍」や「出自」などとも絡み合いながら、「こういうのは、一生に一作は誰でも書ける」あるいは「さあ、お手並み拝見。本当の実力を見せてもらおう」「いつか日本人だけが出てくる小説も書けるようになったら認めてもいい」といったことを、エライ!人たちから仄めかされるたび、自分はこの言語共同体のメインの書き手たちとは、何か重要なバックグラウンドがすぽんと違うことを多かれ少なかれ意識させられた。もちろん、そう意識することは、私の筆力の土台にあってしかるべき思考力を鍛えることにもなったけど。「彼女は書いたが、しかし……彼女は書かなかった」。白状すれば私はこの帯の文章だけですでにもう、何かただ事ならぬ、穏やかならぬ親近感を抱く誘惑に抗し難くなっている。心して読もう。

巷で話題の『みぃちゃんと山田さん』。怖いもの見たさで試しに読んでみたら、噂以上の不穏さだった。賛否が吹き荒れるのが、痛いほどわかる。ここに描かれているのは、まぎれもない、誰か=みぃちゃんの"リアル"な生き様だ。こうとしか生きられない、ひとりの人間=みぃちゃんの壮絶なリアルに怖気づき、時々目を背けたくなりながらも、下世話な好奇心もあいまって、この"覗き見"を、もはや途中でやめられなくなっている。

最後には殺されることが決まっているみぃちゃんの命は、誰に、どう奪われるのか。みぃちゃんできることなら生き延びて、とも、みぃちゃんさっさと死んで楽になれ、とも、みぃちゃんは殺されても仕方ないよ、とも思いたくなるようなストーリーの運びに、まんまと囚われてゆく。
未完なため、判断するには時期尚早かもしれないが、"性産業"に絡め取られた女たちの過酷な生き様や業の深さを、決してきれいごととしてではなく、容赦のない現実として、生々しく描いた作品群という並びでは、曽根富美子さんによる、かの世紀の傑作『親なるもの断崖』を彷彿させなくもない。

あるいは、2010年代を風靡した『アラサーちゃん』の作者・峰なゆかさんの自伝的傑作『AV女優ちゃん』にも、少なくとも内容の次元では匹敵し得る内容だと思う。

とにかく、完結にむかって、物語はどう疾走してゆくのか? 楽しみだと感じているこの気分じたい、ひどく不穏だ。この漫画が話題になればなるほど、"みぃちゃん"という言葉が一人歩きし、そのせいで、”みぃちゃん”呼ばわりされる人たちやその家族が、理不尽に傷つけられることがないようにとせめて祈りつつ。
ちなみに11話分までは無料で読めるようです!↓
「”正しさ”や”努力”にとらわれない、言語学習サイコウ。」ああ、私、これだ。こういうことを、誰かに言って欲しかったんだ。ずっと、ずーっと昔に。「ことばを学ぶ」ことについて、こういうことを誰かに教えてほしかったんだ。

松田真希子さんの『ことばを学ぶとはどういうことか——外国語学習の本質』(ちくま新書、2026)。読了前から直感する。これはわたしの新しいお守りだ。今だって励まされてしまうけれど、かつての悩めるわたしに、誰かがこういうことを教えてくれたなら、どんなに救いになっただろう、と思うことがたくさん、ほんとうにたくさん、この本には書いてある。

「せっかく親が外国人なのに日本語しかできないなんてもったいないね」「あなたなら中国語ができるのは当たり前でしょ」「なんでそんなに中国語が下手なの?」「日本語がお上手なんですね」。十四歳や十七歳や二十歳や二十二歳あるいは三十歳の頃の私のそばに、この本がすでにあったのなら。そして、この本の筆者である松田真希子さんのような先生と出会えていたなら。
きっとわたしは今とはぜんぜん違う小説を書いてきただろう。”呪い”を解くには、わたしはとりあえず小説を書くしかなかった……わたしは、わたしを育んだすべての言葉でできている、それぞれの言葉が常に”正しい”状態でわたしに降りかかってきたわけではなくとも……そう謳うことでようやくわたしは”武装解除”に至った。台湾人みたいに中国語が上手に話せないし、日本語しか話せないのに日本人じゃないと言われることも相変わらずあるけれど、わたしはわたしを育んだすべての言葉に堂々と愛着を抱いているし、時々それを学ぶことを楽しむ(ぜんぜん上達しないおかげで永遠に楽しめる)。
それでいいんだよ、とこの本はわたしの背中を温かく押してくれる。
どんな言葉も、できないよりは、できた方がずっといい。母語——も、たった一つきりの言語でない場合もあるけれど——とは別に、そういう言葉が、誰にでも一つ以上あっていい。”ネイティブ”みたいにならなくちゃと思わなくていい。”正しさ”に囚われず、むしろ”優しさ”が目的の言語学習サイコウ。この本が、それをもっとわたしに信じさせてくれる。この本は何しろ、ことばを学ぶことは、”正しくない”言葉が溢れるこの世界の多彩さを想像することであるとも教えてくれる。

「もっと自由に、幸せに〈学ぶ〉ために、〈ことば〉との関係を考える」機会が、悩めるあなたにも訪れますように!💐
メモ。「写真は、写っている〈いまここ〉を手がかりにしながらも、いくつもの別の時間への通路をひらいていくような表現だと思っています」(上原沙也加)

横浜市民ギャラリーあざみ野で開催中の上原沙也加さんの写真展(展覧会)。率直に言って、ただ、ただ、すばらしかった。見に行けて、ほんとうによかった。ほんとうに、ほんとうによかった。
「たとえすべての瓦礫が
跡形もなく
きれいに片付け
られたとしても」
はじめから、この展覧会のタイトルに私は心をうばわれていた。ギャラリーあざみ野の展示室に赴くと、展示されている写真と真剣な面持ちで向かい合う二十代や三十代と思われる若い人たちがいた。彼らにまぎれながら、那覇、宜野湾、糸満、恩納、名護、嘉手納……花蓮、緑島、台北、そして基隆……順番に見つめるという時間をたっぷりと過ごした直後、このタイトルがますます自分の奥深くでしかと刺し込まれてしまったことを感じずにはいられなかった。


「たとえすべての瓦礫が跡形もなくきれいに片付けられたとしても」。きっと私は、こういう「想像力」をこそ、働かせたいのだと思う。ありとあらゆる、どれだけ語り尽くしてもなお、語り得ぬものの気配に、可能な限り、敏感でいたいのだと思う。上原沙也加さんが写真を撮るように、私も、私の小説を書けたら、と願う。書こう、と誓う。幸か不幸か、行き場を失ったまま、あたりを漂っているはずの、「歴史」の破片や断片は、私たちに見つけられのをいつも待っているはずなのだから。