
メモ。「あんまり淋しいものだから、さほどの昔ではないけれど、あるとき虫歯の穴を詰めてもらって、医者のやわらかい手の先でそっと顎の位置を変えられたら、こんな優しいことがあったのかと切なくなり、うぐっと呑み込んだような声が出て、目に涙があふれてきた。(「大丈夫ですか、キタリッジさん」と医者に言われた。) 」エリザベス・ストラウト『オリーブ・キタリッジの生活』より。
ジュンパ・ラヒリの翻訳者でもある小川高義さんのお名前にまずは惹かれて、そしてこの文庫本の装幀のたたずまいを信じて、軽い気持ちで読み出した『オリーブ・キタリッジの生活』。別々の時期に発表した短篇を、オリーブというあまり人に好かれない一人のご婦人の半生を軸に一つの長篇として編み上げられたこの小説。小川さんの訳者あとがきにしたがって、冒頭から一篇ずつ、順番に読み進めてゆくうちに、まんまと"小さな破裂"が生じ、この本はこの作家は、私のこれからの人生にとって必要不可欠なのだと確信する。

だから、忘備録としても。2026年夏、私は、とんでもなく好きな小説と、また出会えたようなのだ。このひとが書いたものなら、読めるものがある限りひとまずみんなみんな読んでおきたい、と腹の底から欲する作家が、目の前にあらわれたのだ。そう、とっくの昔に読んでいてもおかしくはなかったはずが、うっかり知らずのまま今まできてしまった。エリザベス・ストラウトの、そんな遅れてきた新たな読者である自分自身に、今、ちょっと浮かれてる。まるで、十代の子どもや、若い学生のように。さしづめ、ニューヨークにいるクリストファーに会いにいくオリーブが飛行機のなかで真っ青な空と、新緑の大地を見ながら「希望とは何だったのかを思い出した」ような心地なのだ。いくつ歳を重ねようとも、こんなことがあるということがたまらなく嬉しい。さらに白状してしまえば、ああ、こういう小説をこそ、私は書いてみたいんだよなあ、としみじみ思わされてもいる。近頃ますます書くことと読むことは私の中でひとつながりになっている。畏れ多くも、言ってみたくなる。いつかは私も、私の「オリーブ・キタリッジ」を書けるかな。書きたいや。

相変わらず、小説に救われてばかり。小説を書き読む日々は、最大公約数の人々がこうあって欲しいと望んでいる真実をいかにも真実らしく見せかける物語ばかりが横行するこの世界を、あるがままには受け入れたくない、といつもダダをこねている私を決して絶望させない。



それにしても、ヤン監督の映画の題名の多くが、英語と中国語とで意味がいつもちょっとずれているのが、ほんとうに、たまらなく好きだ。







