✍温聲筆記✍

温又柔が、こんな本を読んでいる、こんな文章に感銘を受けた、と記すためのブログ

「私たちはユニークな存在である」

メモ。「花瓶を割ってみなさい。その断片を再び寄せ集める愛は、それが完全だった時にその均整を当然と受け止めていた愛よりも強いのです」(ウォルコット)。

中村達さんのご著書『私が諸島である』で引用されていた、ノーベル文学賞受賞時のウォルコットのスピーチに痺れている。ウォルコットは、「民族的同一性を保っている(と思い込んでいる)旧世界の人々が、カリブ海を〈文法家が方言を見るように、都市が地方を見るように、帝国がその植民地を見るように〉見ることを批判する」と中村さんは書く。

「〈海外phD〉という〈海外〉が欧米を意味していることに、いつも嫌気がさしていた」と語る中村さんは、日本人として初めて西インド諸島大学モナキャンパス英文学科の博士課程に在籍し、優秀博士号を取得された方。そんな中村さんが「欧米の知のみが唯一のスタンダードではない」という信念――真実といった方がいいだろう――に基づき、「カリブ海思想には独自の歴史がある」と伝えるために、名だたるカリブ海思想家たちの著作やその珠玉のことばを織り込みながら紡ぐ魅惑的な本。頁をめくりながら、ウキウキとしてしまう。ウォルコットもだけれど、ウォルコットノーベル賞受賞スピーチにある「花瓶の比喩」を高く評価するトレス=セイランによる「存在論的不純性」(”ontological impurty”)という表現も、最高に素敵だなと思う。中村さん曰くこれは、「純粋な出自を称えたり同一性を優遇したりするのではなく」、「あれでもなくこれでもない、ということを可能にする一種の存在論的弾力性」のことだそう。

存在論的不純性、存在論的弾力性。
ああ、私は、なんという概念を知ってしまったのだろう?胸がドキドキしてくるほどだ。

またべつの頁を捲ると、カリブの思想家たちの活動とは「西洋中心的知識体系への抵抗」であって、そのことによってこそ彼らは、「自身にかけられた呪い」を解く物語を創るのだとある。解呪の詩学。私はカリブ海についてほとんど何も知らない。この本を中村さんが書いてくださってよかった。中村さんがこの本を書いてくれなかったのなら、きっとずっと気づかずにいたはずの、私にとってすごく大切なことがこの本にはたくさんある。この興奮を私のものだけにしておくのはもったいないとうずうずしてくる。それでちょっと長いけれど、「出会いを押し進めるために 相互歓待」と題された第五章で紹介されていたアール・ラヴレイスという作家が、アーティストにとって最も重要なこと、として語った内容を引用します。

メモ。「だが私たちは若い。私たちは作り上げていかなければならない。もし否定的で自傷的な〈現実〉があるなら、私たちはその〈現実〉を変え、また別の現実を作っていかなければならない。私たちは自分の力と美を探し出さなければならない。私たちは希望を推さなければならない。自虐や自己中傷、自己欺瞞といった残虐で否定的な〈文化〉に、私たちはあまりにも長く虐げられてしまった。自分の望ましくない特性をあまりにも長く演じることになってしまった。その特性が存在するのは、歴史と特異な状況のせいである。それが真実であるのならばの話だ。真実とは何か? もしこれが真実なら、私たちはこの〈真実〉を拒絶しなければならない。アーティストは肯定的で希望にあふれる価値を見つけ出す試練を買って出なければならない。その価値は、彼の感受性とヴィジョンが見ることを可能にし、彼の才能が表現することを可能にするのである」(アール・ラブレイス)

カリブ海から離れた、東アジアの、タイペイで生まれて、トーキョーの片隅に住みつき、ニホン語で生きてるタイワン人の私も、この「試練」を買って出たい。力が湧いてくる。


今日の源:中村達著『私が諸島である カリブ海思想入門』(書肆侃侃房、2023)