✍温聲筆記✍

温又柔が、こんな本を読んでいる、こんな文章に感銘を受けた、と記すためのブログ

「国葬」への疑念、私がそれに反対する理由。

日本国籍は持っていないけれど、私は日本に根を下ろして暮らしている。この国の「住人」であるはずの私は、この国の国民のみが持つ権利を意識するとき、自分はこの国の人ではないと突きつけられるようで、一抹のさみしさを覚える。このさみしさは私がこの国の人になりたいという意味では決してなくて、何しろ私はとっくにこの国の人でいるつもりなのである。それなのに、実際はそうでないといまだに私に思わせたがる人々はいくらでもいる。もはや私は、その人たちを1から説得するつもりはない。長年かかってよくわかったのだ。言葉を尽くして自分をわかってもらおうと努力する義務など、私にはない。彼らの結論は初めから決まっている。

日本という国も、日本語という言語も、我々日本人だけのものだ。気に入らなきゃ出ていけ。

彼らのような人々の自尊心をくすぐるべく、日本を取り戻せ、とばかりに奮い立て、鼓舞した元首相の「国葬」が翌日に控えている。国葬。その禍々しい字面に怖気つく。愛国心を持て、示せ。さもなくばお前は非国民だ。国、を冠する言葉が勇しげにそこらじゅうをギラギラと跋扈するようになれば、最悪、戦争だって止められない。幸い、今の日本は、まだ、そうではない。国葬? しかも、あの人を? と疑問を抱く人の方が圧倒的に多い。しかし、明日にもそれは決行されるらしい。なぜ、止められないんだろう? 私たちが無力だから? 1年前の夏、オリンピックが開催される前日に感じたことと同じ、やりきれなさに襲われそうになる。「国民」の大勢が反対していたオリンピックも、元首相の国葬も、国内最大手の広告代理店によって、まことしやかに開催される。それが、この国の歴史的「汚点」でなければ、なんというのだろう? 所詮、無力なら、せめて一人のささやかな個人として、今抱いているこの強い違和を、はっきりと書き残しておきたい。

さて、この国の国民でない私が無力感に押し潰されそうになっている一方、私の出身国の台湾は、「指名献花」という形で、この国葬に「参加」するらしい。「中華民国」ではなく「台湾」と呼ぶ方針に「台湾を国扱いして反発する中国よりも台湾の方が元首相を愛してくれている」と沸く一部の日本人や、他對台灣很好(彼は台湾にとてもよくしてくれた)、とばかりに元首相を讃える素振りの台湾人。気がとおくなりそうだ。こういうとき、生まれた国と育った国の間で疼く私のさみしさは、抑制できぬ怒りとして燃え上がる。深呼吸。

2022/09/26の忘備録として記す。

 

追記。「所詮、無力なら」と昨日、書き走ってしまったけれど、街では、最後の最後まで「反対」と声を絞り出している人たちがいる。ほんとうに頭が下がる。今日は14時の「黙祷」の時刻になったら、うちで思い切り音を鳴らそう。国会議事堂前に集う方々に、ささやかながら連帯します。(2022/09/27)