✍温聲筆記✍

温又柔が、こんな本を読んでいる、こんな文章に感銘を受けた、と記すためのブログ

「存在しない国」が、根っこにある私たちの物語を…

メモ。「台湾にルーツがあるからと言って、その誰もが台湾の歴史や自らの法的地位を説明できるわけではない。むしろ詳しく知らない方が自然である。日本にいると日本のニュースは意識せずとも入ってくる。しかし台湾に関しては、親や親戚から話を聞いたり、自分で調べて情報を得るしかない。(…)日本という地で台湾について知り語ろうとすると、〈台湾〉にルーツをもっていればなおのこと、自ずと台湾の政治性を帯びてしまい、他者による〈台湾認識〉との擦り合わせも求められるようになった」(岡野翔太[葉翔太])

f:id:wenyuju:20220416094041j:plain

 みずき書林から刊行されたばかりの大著『帝国のはざまを生きる 交錯する国境、人の移動、アイデンティティ』。700頁を越える、まさに大著! うつくしい装幀の表紙や帯を踊る言葉を「読み」ながら、すでにもう心揺さぶられている。いや、厳密には、常に二つ以上の何かと何かの間でたえまなく揺れている自分自身の在りようを、まざまざと思い出させられる。

f:id:wenyuju:20220416094606j:plain

安部公房と「日本」 植民地/占領経験とナショナリズム』(和泉書院、2016)。「無国籍的・国際的」という安部公房の作家神話を問い直す著者の試みに多くを学んだ。

坂堅太さんや野入直美さんをはじめ、興味深い論考が並ぶ第Ⅲ部「引き揚げの表象ーー植民地を故郷とするということ」など、心して読みたい論文ばかりが束ねられたこの分厚い本に胸を高鳴らせつつ、私が真っ先にページをめくってしまったのは第Ⅰ部「移動の経験は世代や境界をいかに〈越える〉のか」の第2章、岡野(葉)さんによる「『存在しない国』と日本のはざまを生きる 台湾出身ニューカマー第二世代の事例から」だ。

f:id:wenyuju:20220416095437j:plain

 「存在しない国」。20歳の秋、中国・西安でパスポートを現地の人に見せたら「こんな国ないよ!」と流ちょうな日本語で言われた記憶が甦る。私が中国人である彼女に差し出した自分のパスポートの表紙には「中華民国」と記されていた。コンナクニナイヨ、というあの日本語を、私は今もときどき頭の中で響かせてみることがある。私が自分の生まれた台湾でそのまま育った台湾人であったなら、おそらく聞くことがなかったはずの日本語。あの日本語を聞いたという経験は間違いなく私の作家としてのかけがえのない財産なのだ。

 岡野(葉)さんのこの論考によれば「1979年に中華民国が自国民の海外渡航の自由化を認めたことで、台湾出身者の日本在留数が増加する。1974年に二万四〇八〇人であった台湾出身者の数は1984年には三万二八一七人まで上昇した」。

 4歳だった私も、この「三万二八一七人」のうちに含まれている。
 1990年生まれの岡野(葉)さんが、ご自身と同世代の、つまり1990年代以降生まれの「台湾出身ニューカマー第二世代の事例」をめぐって調査・研究したこの論考は、彼らより十歳以上年長である私にも、肌身に迫ってくる。

f:id:wenyuju:20220416102109j:plain

日本で育った台湾人にとっての中国語って、ほんとう、なんだろうね。ややこしいったらないよ。まあそれが面白いんだけどね。そう思うまで私、何年かかったのやらね。

 肌身に迫るどころか、だんだん、泣けてきて、そして思ったのだ。岡野(葉)さんによるこうした「台湾出身ニューカマー第二世代」をめぐる調査研究や他の論文を、17歳や20歳や23歳頃の自分に読ませてやりたい。「台湾人って結局、中国人とは違うの?」「母国語を学ぶのになぜ大陸なんかに行くんだ?」「台湾出身? なら僕らの同胞だね」。一体、私はなんなんだ? あなたをしょっちゅう襲うその不可思議な「疑問」は、歴史の中で、あるいは社会的な文脈で、こんなふうに紐解ける、解きほぐせる、と伝えてやりたい。しかし当時の岡野(葉)さんはまだたったの7歳で10歳で13歳で、いつかの自分が台湾という「存在しない国」が根っこにある自分自身を軸に、私たちのような元・子どもたちの「実存」にとっての道標としてはもちろん、「帝国のヴェール」に覆われた見えぬ障壁を意識しながら東アジアの終わらない植民地主義を脱却するべく奔走する人たちにとっても、こんなふうに有意義な研究に邁進するようになるとは思ってもいなかったはずだ。今後、岡野(葉)さんの研究の積み重ねが、台湾を根っこに持つ、持たされているさらに若い世代にとって、自分を愛おしむ力を掴むための契機となるように願ってやまない。
 ……と、岡野(葉)さんにお伝えしたところ、あの文章の「おわりに」で私の文章を引用したと知らされる。光栄。「存在しない国」と日本のあいだで、私もまだまだ考え続ける。

webmedia.akashi.co.jp