✍温聲筆記✍

温又柔が、こんな本を読んでいる、こんな文章に感銘を受けた、と記すためのブログ

李良枝について

メモ。「そもそも言語の問題であれ、詩の問題であれ、男女の問題であれ、また〈在日韓国人〉、あるいは他のどんな立場の問題であれ、個人の性格やその個人の特有な志向性を無視して語れるものなど、果たしてあるのだろうか。
 すべての現象は個人的である、ともちろんこう断定するには勇気がいる」(李良枝)。
 

昨夜、ふと思ったのだ。日本語で読書する私にとっては、ファン・ジョンウンもチャンネ・リーも、翻訳者たちによる素晴らしい翻訳で読む「韓国語圏文学」なのかもしれない。その原作が韓国語なのか英語なのか関わらず。そして、私がここで考えている「韓国語圏文学」には李良枝を含んでも面白いのかもしれない、と気づいたのだ。もちろん李良枝の日本語に「原作」はない。

作家としてデビューしてまもない頃の私は、最も影響を受けた作家は誰かと問われれば必ず、李良枝、と答えていた。ところがある場所でそう答えたら、なぜ台湾の作家ではないの? と聞き返されて困惑したことがある。

「あなたは台湾人でしょう。あなたに朝鮮人在日韓国人の苦悩がわかるの?」とばかりに。

まるで、李良枝はあなたのものではない、我々のものだぞといったその態度に面食らいながら、自分がこの国、日本にある独特の磁場をあまりに軽んじていたかもしれないと反省もした。
 私は、彼が握りしめて離そうとしないことばの杖を奪おうとしているように、相手には見えていたのかもしれない。
 1988年、母語と化してしまった日本語と、母国語であるべき韓国語の間で引き裂かされそうになる自己の実存を、「ことばの杖が掴めない」という卓越した表現で示した李良枝の「由熙」は、高い評価を受けた。

こうした言語の葛藤は、「在日」という出自であろうとなかろうと言語をつかって生きる人間なら誰しもが感じるものだと評価されて芥川賞を受賞した。本が印刷されて、たくさん売れた。

だからこそ、「由熙」が評価されて同時代の読者から熱烈に読まれた頃から十年以上も経てようやく成人した私も、ことばの杖を掴み損ねてうずくまるしかない由熙に胸を震わせ、中国語、日本語、台湾語が混在する「母語」の持ち主である自分の葛藤をそこに重ねずにいられなかった。李良枝が既に故人でその新作は永遠に読めないことを遅れて嘆いた。そして、日本人として生まれなかった日本語作家である李良枝の、そのテキストに続きがあるとしたら、それを編むつもりで自分自身について書いてみようと思った。
 「あなたに朝鮮人在日韓国人の苦悩がわかるの?」

まさか、李良枝の名を自分が口にして、冷笑される日が来るとは思わなかった。

それが、いわゆる「在日」一般の考え方と思ってはいけないだろうし、たまたま「在日」であったわずか一人の人物の意見に過ぎないかもしれないが、私は彼に言われたことが今も忘れられない。

「李良枝は我々在日朝鮮人の誇りです」。

この時点で、実は私は既に知っていた。李良枝自身も「自分が書くのがいつも在日問題みたいなことで語られるのはいやだった」と述べていたことがある。

修士論文を書いていた頃は、自分が敬愛する作家のその言葉の重みをまだ私はよくわかっていなかった。作家になってから私は、自分の作品もそれと似たような読まれ方をされてしまうことに激しく苛立つようになるのだ。曰く「最近デビューしたらしい在日台湾人の若いあの作家の本を読んだけど、台湾の歴史にはかなり無知で、少しばかりの知識もかなり偏っているようだ……」

なぜ、ある小説をめぐって、ある作家をめぐって、その出自や国籍や民族に限定した評価--それが良いものでも悪いものでも--で「囲い込もう」とするのだろう?

そのような読みの態度は、小説そのものの可能性への冒涜である。

そんなふうに苛立つ私に向かって、それならもっと「普通」の小説を書いて本当の実力を見せつけてやればいいんだ、と励ますつもりで言ってきた人もいた。

日本は日本人の国だから、日本語で小説を書くほとんどの人は、日本人を代表したり、背負わされる必要には迫られていない。個人として、自分が書きたい小説を書くことに初めから集中できる。
 しかし私は、私のような作家は、「出自」や「国籍」で作品を語られたくないなら、あなたが「個人」であることをさっさと証明しなさい、と促される。

--国境を越えろ、いや、越えるな。線を引くな。いや、線はちゃんと引け。

なぜ? なぜ? なぜ?

私はたっぷりの時間と労力を、こうした問いのために費やした。そうすることが、小説を書く上での私の思考を鍛えた。だからこそ、めぐりにめぐって、不愉快な「誤読」には感謝している。でなければ、「まとも」な、少なくとも自分では「まとも」だと思える小説を書こうという努力を保つことはできなかった。

……こんなことを、今、改めて思ってしまったのは、ファン・ジョンウン『年年歳歳』を読んでいるうちに、つい数年前、「在日だけのものであるはずの葛藤を、日本人や韓国人と共有しようとする『由熙』のような作品を書いた李良枝は、真の意味では在日の作家ではない」と言った人と自分の間に生じた「断絶」を思い出してしまったからだ。

在日だけの葛藤。

李良枝が遺した数少ない作品を、この国、この日本にある独特の磁場でのみ、大切に読みたがる人たちは確かにいる。

それも一つの、”正しい”読みではあると思う。書かれたものは、どんなふうに読まれる可能性もある。そのこと自体は尊重したい。

しかし私は、もっと別の読み方がしたい。すべての現象は個人的である、とこう断定するには勇気がいるとあくまでも慎重だった李良枝が遺した言葉を、私は抱きしめる。それにしても、彼女の全集を捲るたび、心象風景も含む、一つひとつの情景を描写する上で、この作家は自分がつかう言葉に対してなんと潔癖なのだろうと毎回飽きもせずに感嘆する。自分にはこれぐらいできているだろうかと不安になる。彼女の言葉そのものに漲る緊張感を感知せずに、どの口が「真」の在日作家だのなんだの評せるのか。つまらない。小説は、イデオロギーの手段ではない。書く者にとっても、読む者にとっても。なんて当たり前のことなんだろう。