✍温聲筆記✍

温又柔が、こんな本を読んでいる、こんな文章に感銘を受けた、と記すためのブログ

〈コスモポリタン〉から遠く離れて

メモ。「幾つかの言葉をあいまいに操るひとは自由に多くのひとと交流できているというより、言いたいことの底に手が届かないで孤独を深めていることも多いと思う。とはいえ、これはマルチリンガルなひとだけの孤独ではない。われわれひとりひとり、それに気づいているかいないか、程度の差こそあれ、みんな抱えている孤独である」(中村和恵)。

 約四半世紀前。1998年刊行の『キミハドコニイルノ』を胸弾ませて読んだのは、『日本語に生まれて 世界の本屋さんで考えたこと』で”中村和恵文体”に魅了(ノック・アウト)されて、もっともっと読みたいというのが契機だったので、今から十年ほど前だったのだが、願わくばもっと早く、本が刊行された頃に出会っておきたかったなと未だに思う。そしたら私はまだたった十八歳やそこらだったのだから。日本人でもなく日本生まれでもないのに日本語にほぼ生まれたようなものだった私は、日本人がこうだと示す「日本人」や「日本」や「日本語」の「定義」をまったく疑うことがなかった。さらに言えば、本当は台湾人である自分もいずれ「世界人」とか「国際人」とか「地球人」と呼ばれるような、輝かしき「コスモポリタン」になることを、高校生から大学生になろうとしつつあった頃の私は、21世紀を目前に控えるという時代の中で、全方位から推奨されるがまま、確かに心浮つかせながら夢みていたのだった。でなければどうして、「国際文化学部」に進学し、上海に留学して中国語を学ぼうだなんて思うのか。しかし日本で育った台湾人としての自分の中国語が上達するどころか、どこから”観測”してもデタラメに思えてくるにつれて私は、そんな自分を恥じるようにもなったし、自分にそう感じさせるあらゆる圧力に背を向けたくなったのだし、さらには「マルチカルチュラリズムや〈クレオール性〉を、個別の状況を離れて抽象的な理論として理想化することに」抵抗も感じるようになったのだった。だからこそ、「いまいる場所を自問しながらうろうろ歩いていく方向音痴のようす」の”記録文集”ということで、『キミハドコニイルノ』と題されたこの本の存在を、あの頃の私がちゃんと見つけられるアンテナがあったら、どれだけ良かったのかとつくづく思う。今でもこの本に、私は十分、勇気づけられているのだから。

「言いたいことの底」なんか、わざわざ覗き込まなくていい。そうすれば、「世界」と呼ばれる場所の表面をつるつると、躓くことなく、どこまででも行ける。どこででも稼げる。いま私は、はっきりと知っている。二十歳前後の頃の自分が目指しかけていたものの”正体”を。だからって、そうなっていたかもしれない自分を軽蔑しているわけでもない。私はたまたまそうならなかっただけだ。なり損ねた、と言ってもいい。そして、そんな自分を誇りたくなっては急に恥ずかしくなる。何を偉そうに。お金を、必要以上に稼がなくていい。名前を、これ以上売るつもりがない。だからこそ私は今、こんなにも高潔ぶっていられる。キレイゴトを言ってられる。それでいいのかもしれない。それが許される限りは、「言いたいことの底」に手を伸ばし続けることをしていたい。少なくとも今はまだ。

今日の源:中村和恵著『キミハドコニイルノ』(彩流社、1998)、中村和恵著『日本語に生まれて 世界の本屋さんで考えたこと』(岩波書店、2013)