✍温聲筆記✍

温又柔が、こんな本を読んでいる、こんな文章に感銘を受けた、と記すためのブログ

善きフィクションと人生

メモ。「小説を書く過程は、私より先に生きた彼らから、人生を学ぶ時間でもあった」(イ・グミ)。

また、一冊の私(たち)にとって大変重要な本が刊行された。

著者のイ・グミは、「複雑で多面的な存在」である人間を「日帝強占期という歴史的枠組みに閉じ込めて、二分法に書きたくなかった」と述べている。完全な善人も悪人もいない。思えばこの圧倒的な事実の前で、私はいつもフィクションに魅了されながら人生を学んできた。人生の謎に、フィクションによって近づくという経験を何度もしてきた。時々、自分の人生の丸ごとが、善きフィクションとは何なのか探究するためにあると感じる。幸い、「教材」は豊富だ。たとえば、イ・グミが構想に10年を費やしたというこの小説。そのタイトルに、まずはぎゅうっと胸が掴まれる。なんとなく、ノーマ・フィールド『へんな子じゃないもん』を読んだときのことを思い出す。

この本の中でノーマは自分自身が「子どものころは市民権というものを、ある場所にずっといてもいいという許可のように理解していたらしい」と書いている。ノーマは「家から引き離されはしないかと、びくびくしていた」という。アメリカ人の父親と日本人の母親の間に生まれ、この本が翻訳された頃にはすでにシカゴ大学で教鞭をとり、かの『天皇の逝く国で』の著者としてもよく知られていたかのじょは淡々と綴っている。

「いまのわたしには、階級を生きることの大きな部分が、自分はそこにいる権利がある、いや、そこにいるのが自然であると感じる場所と、大きくかかわっていることが見えてきた。なぜなら権利だけでなくそこで生きる手段をもっていてさえ、帰属感がないと自分が侵入者であるかのように感じてしまうからだ。そしてそれが、アイデンティティの大きな決め手となる。だから階級アイデンティティへの脅威が国民的アイデンティティへの脅威のように感じられ、逆もまたそうであるのも、ふしぎではない」。

自分がどこへなら行ってもいいのか、どこにとどまっていいのか。なぜ、ただ生きているだけのつもりなのに、未だに、ふとした拍子に、自分を「侵入者」だとか「闖入者」のように感じてしまうのだろう? いや、私もまた、他の誰かをそのように感じさせていることがある。私の「階級」ならばきっと……性別を、階級を、国家を、人種を、海をこえてでも自らの運命を切り拓こうとする少女たちの「そこに私が行ってもいいですか?」という問いにすでにみなぎる、その切実さに、「善きフィクション」を試みるためにもがく作家の誠実さをひしひしと感じる。それに、この本が日本語に翻訳されて、アジアの近現代史の一部の中で生かされている自分(たち)のもとに届くことの意味も大事にしたい。

今日の源:

イ・グミ著、神谷丹路訳『そこに私が行ってもいいですか?』(里山社、2022)

ノーマ・フィールド著、大島かおり訳『へんな子じゃないもん』(みすず書房、2006)