✍温聲筆記✍

温又柔が、こんな本を読んでいる、こんな文章に感銘を受けた、と記すためのブログ

私のものだけではない特権

メモ。

「年とった者、障害をもっている者、本物の女/男というステレオタイプに合致しない者には、〈特別の配慮〉が払われる。特別だという意識は、ここでは〈最初の〉女とか〈唯一の〉女と言うときに現れるが、それが差異の意識と混同されるのはよくあることだ。匿名の集団のほんの一握りの人間で、彼女たちより〈不運な〉姉妹のために道をひらくという特権をもっているときには、〈特別〉と感じざるをえないのだろう。
 この特別な人間という誉れは、他の女はしない(できない)ということを基盤に、〈それをやった私〉と〈それをやれなかったあなた〉とのあいだに、たやすく距離ーー区分でないにしてもーーを作ってしまう。したがって連帯という言い方はしても、心のなかでは、この分野にあなたが入ってこなければいいと思っている。なぜなら、入ってくれば競争し張り合うことになり、遅かれ早かれ、私の特別性が瓦解してしまうからだ。したがって私は二重のゲームをしていることになる。一方で、女として、典型的な女として、平等な機会を得る権利を声高に主張し、他方で、主人が一連の抑圧を永続化する手助けをし、それによって自分の特権を密かに守ろうとするからだ」(トリン・T・ミンハ

2023/07/14、カトリック麹町聖イグナチオ教会敷地内にて。左は、敬愛する友人・三木幸美さん。

 今夜(7/14)、三木幸美さんと話しながら上述したトリン・T・ミンハの文章が何度も脳裏をよぎった。

 声と信用と重み。小説を、書いた/書いている/書きつつある私を、認めてくれる人たちのおかげで喋る機会を得るたびに、いつも思う。私の声を信用し、そこに重きを感じてくれる人たちの前に、立っていられている私だけが私ではない。小説を書かない/書けない/書こうとなど想像もしたことがない私もまた、私なのだ。〈それをやった私〉と〈それをやれなかった私〉とのあいだで、私だけが〈特別〉なのだと自惚れた途端、私はおそらく何一つ書けなくなってしまうだろう。少なくとも、今の自分が「小説」だと信じているようなものは。あんな小説を書いたぐらいで、自惚れられる程度の志など大したものではない。そう思う。
 〈こうでしかない私〉と、〈こうではない〉すべての〈私〉とのあいだで、私は私が書くべき小説を模索する。今の私にできるのはこれぐらい。

今日の源:トリン・T・ミンハ著、竹村和子訳『女性・ネイティブ・他者 ポストコロニアリズムフェミニズム』(岩波書店、1995)