✍温聲筆記✍

温又柔が、こんな本を読んでいる、こんな文章に感銘を受けた、と記すためのブログ

この苛立たしさの正体は?

メモ。「一つ、大それた希望を言うなら、韓国文学を一つの有用な視点として、自分の生きている世界を俯瞰し、社会や歴史について考える助けにしてもらえたらありがたい(…)日本の歴史は、朝鮮半島の歴史と対照させて見るときに生々しい奥行きを持つ。この奥行きを意識することは、日本で生きる一人ひとりにとって、必ず役立つときがある」(斎藤真理子『韓国文学の中心にあるもの』より)

 7月に入ってからずっと、白水社より8月22日刊行予定『李良枝セレクション』の解説執筆に明け暮れていた。「日本と韓国との、厄介でややこしい関係の中に生み落とされた〈在日韓国人〉二世だからこそ、背負いこまなければならない厄介さ」を自覚しながら、みずからのありようを、「国語(コクゴ)」でもなく「国語(クゴ)」でもなく、その間にあるはずの自分自身のことばによって小説を書くことと立ち向かった李良枝の、その「軌跡」を辿っていた。

 22歳の李良枝は書いている。「ほんの少しずつ覗き始めた在日朝鮮人社会は、虐げられた者同士が肩を寄せ合って生きている、という自分が思い描いていた世界とは違っていた。そこには南北に分断された祖国の状態が色濃く投影し、さらに細分化された法的地位が多様な立場と政治性を主張していた。民族に目覚めた者なら誰でも、と寛容に受け入れてくれる場所ではなかった(…)否応なく私は、自分の持つ日本国籍の意味を考えさせられたのだった」。1979年のことである。のちに日本の作家となった李良枝は、その遺作にあたる小説の作中人物にこう言わせる。「イム・スイルという一人の人間を、これほどまでに卑屈な人間に作り上げた〈日本〉とは何なのだろう」。連日李良枝を読み耽っていたのもあって私は、「日本の歴史は、朝鮮半島の歴史と対照させて見るときに生々しい奥行きを持つ」という斎藤真理子さんの文章がやけに肌身に迫ってくる。今「日本で生きる」一人として、自分が特にここ数年、韓国(語)発の文学、小説にとてつもなく惹かれてしまうのか、その「秘密」がなんとなくわかるような気がしてくる。いや、わかりたいと切に願っている自分に気づく。

「例えば、小津安二郎黒澤明が拉致されて不在になったところから出発する日本映画、というものを想像してみれば、その深刻さに想像がつくのではないだろうか」。クラクラする。韓国文学の中心にあるものを意識するとき、私は日本文学の中心には何があるのだろうと思ってしまう。李良枝と中上健次が逝去し30年の月日が流れた。たまに無性に苛立たしくなるのだ。私程度で、私の小説程度で、「テンションがすごい」とみなされることが。その理由が、個人史及び家族史を国家の歴史そのものに結びつけて語っているから、というのが。それを、ほかでもない、日本の、べつの小説家が堂々と言ってしまえることが。こういう磁場の中で、自分が、自分自身について、家族の歴史について、こういう日本の、こういう社会の一員として小説を書かざるを得ない、ということが。こういう時代の中で、日本の文学の一部として、李良枝のあとを歩く自分の小説を構想(空想)することが。でも、この苛立たしさとはなんだろう? 韓国文学の中心にあって、日本文学の中心にはないものの、それが何なのか直視せねば、と掻き立てられるのは私にとって、自分のこの苛立たしさの正体を知りたいからなのかもしれない。

今日の源:斎藤真理子著『韓国文学の中心にあるもの』(イースト・プレス、2022)