✍温聲筆記✍

温又柔が、こんな本を読んでいる、こんな文章に感銘を受けた、と記すためのブログ

「不確かでちらちらとゆれる弱い光」を……

メモ。「最も暗い時代でさえ、人は何かしらの光明を期待する権利を持つこと、こうした光明は理論や概念からというよりはむしろ何人かの人々が、彼らの人生と仕事に置いて、ほとんどあらゆる環境のもとでともす不確かでちらちらとゆれる、多くは弱い光から生じること、またその光は地上で彼らに与えられたわずかな時間を超えて輝くであろうことーー」(ハンナ・アーレント

西暦2022年。令和4年。民国111年の1月がやってきた。辛亥革命から約111年後の世界に自分は生きていると意識しながら、まさに「暗い時代のひとびと」に「光」をもたらした魯迅が書き遺した言葉を読んでいるとクラクラしてくる。

f:id:wenyuju:20220103080443j:plain

今朝は、対馬美千子さんの論考『ハンナ・アーレント』をめくってみた。この本の副題は「世界と和解のこころみ」。魯迅を読むと世界との「和解」は激しく困難なことに感じられる。「真実」を暴かれると都合の悪い巨大な権力者は、いつ、どんな時代も、「真実」を知らしめようとする「目醒めた者」を小指一本動かすだけで捻り潰してきた。重要なのは、魯迅のような人たちがその生、その言葉を通して「あとから生まれるひとびと」に向かって投げかける「不確かでちらちらとゆれる」弱い光を感知した私(たち)が、その光にどう応答すれば歴史を真に気遣うことになるのか……それを具体的に思案することこそ、今の私にとって「歴史」を学ぶ、一つの道標となっている。

ものを考えるという行為を行う上で、誰の目も憚ることもなく、いくらでも時間を費やせる境遇にいられる者のうちのひとりとして、境遇に見合う責任を果たしたいとあらためて自分を奮い立たせている。自分が、誰かにとっての「あとから生まれたもの」であると同時に、別の誰かにとっては「先に生まれたもの」でもあると意識しながら。それに、あと3年もすれば「昭和元年」の100年後がやってくる。

今日の源:対馬美千子著『ハンナ・アーレント 世界との和解のこころみ』(法政大学出版局、2016)

決意

f:id:wenyuju:20220101003330j:plain

メモ。「私の文学を偏愛する顧客には一点の喜びを、私の文学を憎悪する連中には一点の嘔吐を与えたい――私は、自分の狭量はよく承知している。その連中が私の文学によって嘔吐を催せば、私は愉快である」(魯迅)。

私は、’善い人’であろうとする傾向が強すぎる。実のところ非常に狭量のくせに、何かと寛大なふりをしたがる。ちょうど新年だ。ここからは、もっと正直であろう。自分と関わるすべての人に対して親切でいなければと欲張らず、私自身を’愉快’にすることを最優先しよう。私の中の善なるものを守るためにも。

今日の源:竹内好編訳『魯迅評論集』(岩波文庫、1981)

わたしたちの聲音

メモ。「私はもう私がわからなくなって来た。私はただ近づいてくる機械の鋭い先尖がじりじり私を狙っているのを感じるだけだ」(横光利一

よろこべと命じられてよろこぶなんてまっぴらだ。私たちの絶望に対する渾身の抵抗が自由を信じたいと願うあなたと共にありますように。

今日の源:「機械×戒厳令 2021 remix」

youtu.be

距離をとる

f:id:wenyuju:20211224230521j:plain

メモ。「私は十二歳で父を、十六歳で母を、十七歳で祖母を亡くし、それらの経験を通して目の前の物事を眺めるようになったのです。それが物事を客観的に見、ひたすら観察する目です。これは非常に重要なことです。だからこそ、物事を俯瞰し、客観視するアングルが生まれたのです。さもなければ、そのなかに入り込みすぎて、うまく対処できなかったでしょう。いつの間にかそうした姿勢が身につき、自覚しないうちにそうした目が育っていたのです。それはいまも変わりません」(侯孝賢

 2021年12月22日日経新聞夕刊に杉田協士さんの短いインタビューが載っていた。杉田監督も、ホウ・シャオシェンの『恋恋風塵』の何気ない序盤のシーンに涙が止まらなかったという。

f:id:wenyuju:20211224232825j:plain

 距離とはまなざしである、と語る侯孝賢監督のことばが忘れられない。言うまでもなく、『悲情城市』『童年往事 時の流れ 』『風櫃の少年』などを撮った人のことばであるからこそ、揺さぶられる。そんな監督の「映画講義」が一冊の本になって、少しずつ読みすすめている。侯孝賢監督は述べる。

「映画とは、現実をフレーミングしたものであり、私たちが実際に見るものとは別のものなのです。(…)フレーミングしてはじめて、いわゆる〈距離感〉が生まれ、美的経験が生まれます。フレーミングによって凝縮が、つまり特定の範囲内への集中が起こるのです。もっとわかりやすく言うと、みなさんがあるものを捨て、あるものを枠取るのは、そこにみなさんが興味を覚え、何らかの美を感じたからです。だからこそそれを切り取ったのです。ここが非常に重要です」。

 最近、たまに考える。忘れられないから書くのではなく、書いたせいで忘れられなくなった経験が、私にはけっこうある。そのせいで、その経験について、ぜんぜんべつの書き方をしたくなってしまうこともある。書けば書くほど、書かなかったことのほうが増えてゆく気がするのだ。

 それにしても、書かずには自分のものにし得なかっただろう経験と、書かなくても十分に乗り越えられた経験の、強度の違いって何だろう?「そのなかに入り込みすぎて、うまく対処できなかった」経験ほど、書かずにはいられないと感じてしまうのは何故なのか。

今日の源:卓伯棠編、秋山珠子訳『侯孝賢の映画講義』(みすず書房、2021)

 

「モデル・マイノリティ」なんて、いないってばほんともう何度言わせんの

f:id:wenyuju:20211221073126j:plain

 メモ、メモ、メモ……ニケシュ・シュクラのこの本が翻訳・刊行されて以来、ことあるごとにこの本を捲ってはメモをしている。

「本書が生まれる発端となったのは、『ガーディアン』紙に掲載されたある記事に対する一つのコメントでした。はい、承知しています。コメント欄なんて読むな、とおっしゃるのでしょう。でも私は読むようにしています。自分の敵を知りたいからです」(P3,編者まえがき)

「有色人である私たちは絶えず、自分たちが占めている場は正当なものだと説明せねばならないのか、自分たちは努力して席を獲得したことを示さねばならないのか、という不安につきまとわれつづけるのです」(同上)

「私たちは人種についてだけ書いているわけでもありません。ですが、(…)移民や難民に対する後ろ向きな態度や、今日に至るまでこの国にはびこっている組織的人種差別のことを踏まえ、今、有色人種であるとはどういうことなのか、その実状を伝える本をつくらねばならないと感じたのです。すでに私たちは、自分たちの席の正当性を証明し終えてますから」(P4)

 この2,3年の間に、私のもとに舞い込んだいくつかの依頼。「多様性を謳うために」「海外ルーツをもつ人々を理解するために」、もっと露骨に言えば「移民や難民に対する後ろ向きな態度」を持つ人々やそういう人々が大勢いる日本のわるくちを言わせるために、「リベラル」を自称する人たちからの依頼が、ときどき私に舞い込む。私が、「当事者」の中ではなかなか日本語を巧みに使いこなすほうであるからという理由で。百歩譲って、気持ちはわかる、わかるよ。日本はあいかわらず息苦しい。風穴を私だっていつも求めている。

 でも、頼むから、私(と似た境遇にいる人びと)にばかり、担わせないで。私たちだけが「当事者」だと思わないで。モデル・マイノリティなんて、いない。何度も言わさないで。その態度は私(と似た境遇にいる人びと)を無視し、抑圧するマジョリティ―の態度とほぼ表裏一体なのだと早く気づいて。少なくとも私は、日本は国際化しつつある、というアリバイ作りに加担したくない。「モデル・マイノリティ」としてチヤホヤされることに何の疑問も感じずにいられるなら楽だろうなと思うことはある。でも、マジョリティが望む「モデル・マイノリティ」になっただけでは、風穴はあかない。スローガンを唱えていればいいだけなら、文学も芸術も必要ない。

 

追記。私をいつまでも励ましてくれる『よい移民』を翻訳なさった栢木清吾さんとも、こんなふうに語らいました。

imidas.jp

 

 

今日の源:ニケシュ・シュラク著、栢木清吾訳『よい移民 現代イギリスを生きる21人の物語』(創元社、2019)

愛おしい不純な奴ら

f:id:wenyuju:20211212180304j:plain

メモ。「複数の言語をまたぐことで雑多な偽物が生まれてくる。カルチュラル・スタディーズならば混淆性や多様性なんてきれいな言葉で語るのだろうが、そうした便利な言葉で捉えてしまえば、周囲に理解されず受け入れられない多くの、境界線上にいる人びとが日々感じる痛みが視野から落ちてしまう。だいたい、純粋でいられたらこんなに楽なことはないのだ(…)この本で展開したのは、ぼくなりの偽アメリカ文学の試みである。そしてまた、ぼくをここまで育ててくれた、日米に散らばる多くの不純なやつらへの感謝の手紙でもある」(都甲幸治)

 都甲さんをとおして出会うアメリカ文学は、いつだって面白い。翻訳を’拒む’テキスト、ミルトン・ムラヤマについて語る都甲節に、昨日もすっかり魅了されてしまった。「日本人がアメリカ文学を研究する意味なんてどこにあるんだろうと思っていた」とはじまる都甲さんの第一評論集が、この『偽アメリカ文学の誕生』。純粋でいられたらこんなに楽なことはない。偽物の誕生を言祝ぐ都甲さんの言葉は、純粋な日本人ではないとか偽の台湾人とか言われるたびこっそり傷ついてきた私を心底励ましてくれる。くよくよしてる暇はない。世界に散らばる多くの不純なやつの一人としてどんどん書き続けなくちゃね。私たちは、常に一人ずつだけど決して独りぼっちなどではない。この期に及んで純粋さをありがたがるやつらに私たちこそ素敵なんだぞと知らしめよう。

f:id:wenyuju:20211212182500j:plain

今日の源:都甲幸治著『偽アメリカ文学の誕生』(水声社、2009)

彼女たちと〈私〉の絆

f:id:wenyuju:20211205003334j:image

メモ。「アメリカ生まれの中国人たち,あなたたちの中の中国的部分を理解しようとする時、あなたたちは幼少期に特有なもの,貧困によるもの,狂気によるもの,自分の家族にだけ関わるもの,成長段階に合わせて母親が話してくれたものと,中国的なるものとをどう区別するのですか? 何が中国の伝統で,何が映画で見たものなのですか?」(マキシーン・ホン・キングストン)

あっというまに12月だ。シンポジウム「国民文学の終焉:アメリカ文学の(再)世界化、世界の脱アメリカ化から考える」がいよいよ次の土曜日に迫る。イーユン・リー。ウェイク・ワン、リン・マー、ジェニー・ザンを、日本語で読みながら準備が楽しいオン・ユージュ。この調子で緊張をはねつけよう!

www.tokyo-als.org

今日の源:エレイン・キム著、植木照代・山本秀行・申幸月訳『アジア系アメリカ文学 作品とその社会的枠組み』(世界思想社、2002)、マキシーン・ホン・キングストン著、藤本和子訳『チャイナ・メン』(新潮文庫、2016)他。