✍温聲筆記✍

温又柔が、こんな本を読んでいる、こんな文章に感銘を受けた、と記すためのブログ

距離をとる

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メモ。「私は十二歳で父を、十六歳で母を、十七歳で祖母を亡くし、それらの経験を通して目の前の物事を眺めるようになったのです。それが物事を客観的に見、ひたすら観察する目です。これは非常に重要なことです。だからこそ、物事を俯瞰し、客観視するアングルが生まれたのです。さもなければ、そのなかに入り込みすぎて、うまく対処できなかったでしょう。いつの間にかそうした姿勢が身につき、自覚しないうちにそうした目が育っていたのです。それはいまも変わりません」(侯孝賢

 2021年12月22日日経新聞夕刊に杉田協士さんの短いインタビューが載っていた。杉田監督も、ホウ・シャオシェンの『恋恋風塵』の何気ない序盤のシーンに涙が止まらなかったという。

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 距離とはまなざしである、と語る侯孝賢監督のことばが忘れられない。言うまでもなく、『悲情城市』『童年往事 時の流れ 』『風櫃の少年』などを撮った人のことばであるからこそ、揺さぶられる。そんな監督の「映画講義」が一冊の本になって、少しずつ読みすすめている。侯孝賢監督は述べる。

「映画とは、現実をフレーミングしたものであり、私たちが実際に見るものとは別のものなのです。(…)フレーミングしてはじめて、いわゆる〈距離感〉が生まれ、美的経験が生まれます。フレーミングによって凝縮が、つまり特定の範囲内への集中が起こるのです。もっとわかりやすく言うと、みなさんがあるものを捨て、あるものを枠取るのは、そこにみなさんが興味を覚え、何らかの美を感じたからです。だからこそそれを切り取ったのです。ここが非常に重要です」。

 最近、たまに考える。忘れられないから書くのではなく、書いたせいで忘れられなくなった経験が、私にはけっこうある。そのせいで、その経験について、ぜんぜんべつの書き方をしたくなってしまうこともある。書けば書くほど、書かなかったことのほうが増えてゆく気がするのだ。

 それにしても、書かずには自分のものにし得なかっただろう経験と、書かなくても十分に乗り越えられた経験の、強度の違いって何だろう?「そのなかに入り込みすぎて、うまく対処できなかった」経験ほど、書かずにはいられないと感じてしまうのは何故なのか。

今日の源:卓伯棠編、秋山珠子訳『侯孝賢の映画講義』(みすず書房、2021)