✍温聲筆記✍

温又柔が、こんな本を読んでいる、こんな文章に感銘を受けた、と記すためのブログ

責任と快感

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メモ。「創作は純粋な行為ではありません。歴史をひもといてみればあきらかです。イデオロギーが要求します。社会が要求します。(…)作家は、書きはじめる前からさまざまな規範(モラル)に捉えられています。規範は多岐にわたり、芸術的、イデオロギー的、民族的、政治的、宗教的とさまざまですが、これらが作家を縛っています。頭脳のなかだけでおこなう創造行為でさえ純粋なものではありません。作家は、自分が認識と意志をもつ以前の生まれながらの条件についても責任を問われます。つまり、親から生を受けると同時に獲得した遺伝的、環境的、社会的、経済的諸条件を、作家としてどう考えるのかと問われるのです」(ナディン・ゴーディマ)

これも私のたくさんある未完の愛読書のうちの一つだ。「社会と書くことの双方に対して作家が負う責務」とは何か。一作、発表するごとに意識する。書くことは責任をともなう。何らかの「代弁者」としての役割を、否応なく担わされることがある。こちらが意識しようとしまいとに関わらず。私は、それを完全にはコントロールできない。それを、常に頭の片隅にね。とはいえ、創作という行為に没頭しているときほどの快感はなかなかないのもまた本音なのである。やはりナディン・ゴーディマがその本質を明晰に言いあてている。「フィクションとは人生のなかに可能性としては存在しながら、しかし一度も夢見られたことのないことがらを探求する方法である」。

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今日の源:ナディン・ゴーディマ著、福島富士男訳『いつか月曜日に、きっと』(みすず書房、2005)

私でいる責任

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メモ。「私には考える時間がある。それこそ大きな、いや最大のぜいたくというものだ。私には存在する時間がある。だから私には巨大な責任がある。私に残された生が何年であろうと、時間を上手に使い、力のかぎりをつくして生きることだ。これは私を不安にさせはしない。不安は、私が知りもせず知るすべもない多くの人々の生活と、アンテナかなにかでつながっているという自分の生活の感覚を失ったときに起こるのだ。それを知らせる信号は、常時行きかっている」(メイ・サートン)

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最近、あまり長い時間をかけて日記を書かなくなった。昔は、日記を書かなければ不安でしかたなかった。日記を書いているときだけ、不安が遠ざかるのだ。たぶん最近の私にとっては、小説が日記の代わりになっている。私は小説を書く。私には小説を書く時間がある。私には考える時間もある。私には巨大な責任がある……だからといって、私は私以上の何にもなれない。なったつもりになってはならない。ただ、私以下のものとして扱われる屈辱に甘んじてもならず、とにかく私は私でいる責任がある。

 

今日の源:メイ・サートン著、武田尚子訳『独り居の日記』(みすず書房、1991)

「冷笑ではなく希望を 怒りではなく喜びを」

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メモ。「冷笑は、何よりもまず自分をアピールするスタイルの一種だ。冷笑家は、自分が愚かではないことと、騙されにくいことを、何よりも誇りにしている。(…)冷笑家は、失望した理想主義者だったり、非現実的な評価基準の支持者だったりすることが多い。彼らは勝利に居心地の悪さを感じる。なぜなら、勝利というのは、ほぼいつも一時的なものであり、未完であり、妥協されたものだからだ。希望を受け入れることは危険だからだ」(レベッカ・ソルニット)

 一昨日、クロエ・ジャオ監督の受賞スピーチをめぐる記事を再読し、人間に本来的に備わっているはずの善なるものを信頼することの対極にあるのが「冷笑」なのだろうとあらためて思った。そして、それを、真(まこと)の名で呼ぶならば……と題されたソルニットのエッセイ集のことを思い出す。この本をはじめて手にしたとき、「冷笑ではなく希望を 怒りではなく喜びを」という帯のことばを、心のスローガンにしたいと胸が熱くなった。上述の文章は、本書に収録されているもののうちまさに「無邪気な冷笑家たち」という章からの引用。

 この章はこんなふうに結ばれる。

「無邪気な冷笑の代わりになるものは何だろうか? 起こったことに対して積極的な対応をすることであり、何が起こるのか前もって知ることはできないと認識することだ。そして、何が起こるにせよ、かなりの時間がかかるし、結果も良いことと悪いことが混じっていると受け入れることである。(…)

 無邪気な冷笑家は、世界よりも冷笑そのものを愛している。世界を守る代わりに、自分を守っているのだ。わたしは、世界をもっと愛している人びとに興味がある。そして、その日ごとに話題ごとに異なる、そうした人たちの語りに興味がある。なぜなら、わたしたちがすることは、わたしたちができると信じることから始まるからだ。それは、複雑さに関心を寄せ、可能性を受け入れることから始まるのだ」。

 希望を受け入れる危険に賭けよう。裏切られる失意や絶望を恐れるあまり「冷笑」によって身を護ることで、決して完全ではないこの世界の複雑さに目を瞑る人が多くなればなるほど、その分だけ、この世界はまた単純化する。

 ちなみにこの本、続く、「憤怒に向き合う」という章にも、心のスローガンにしたい言葉ばかり。たとえば、「怒りは憎しみとは異なる。だが、怒りをかきたてるものを傷つけたいという願望が一定のターゲットに絞られるようになったら、それは憎しみである」とか…!

 

今日の源:レベッカ・ソルニット著、渡辺由佳里訳『それを、真(まこと)の名で呼ぶのならば 危機の時代と言葉の力』(岩波書店、2020)

「人之初,性本善」

 メモ。「……例え真逆のことが真実に見える時でも、私はその言葉を心から信じています。私はいつでも、自分が訪れた世界の全ての場所で出会った人々の中に善良さを見つけています。
 信じるものを持ち、善良さを自分の中に繋ぎとめる勇気、お互いの中に繋ぎとめる勇気を持つ人たち。それがどれだけ難しいことだとしても」(クロエ・ジャオ)。

 あいかわらず、ひっきりなしに心がささくれる出来事は起きている。自分も含む、誰もかれもが妙に狡く底意地悪く思えてきて、こんな社会ではひとり善良な態度を保つことが馬鹿馬鹿しくなってしまうような。心ある人間でいようと努めるのが億劫となるような。だからこそ、「善良さを自分の中に繋ぎとめる勇気」、そして「お互いの中に繋ぎとめる勇気を持つ人たち」を信頼し、関係しあう希望を奮い立たせてくれる芸術の存在が、私たちには永遠不可欠なのだ。『ノマド・ランド』もその一つだった。

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今日の源: 

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まじめに練習する日々

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 メモ。

 「自伝や回顧録なら、ひとつ自分の声だけで書くということもある。ただし、自伝や回想録に出てくる人がみんな、作者のしゃべってほしいことばかり話しているなら、読者に聞こえてくるのは作者のおしゃべりだけだ――際限も説得力もないひとり語りである。同じことをやらかす創作の書き手もいる。登場人物を、自分の言いたいことや耳にしたいことの代弁者として利用してしまうのだ。そうなると、みんな同じようなしゃべり方で、登場人物も作者の小型拡声器以外の何ものでもない、そんな物語を読者がつかまされることとなる。

 この場合に必要なのは、聞こえた他者の声を用い、受け入れて用いられる自分を意識して、まじめに練習することである。

 自分語りの代わりに、自分を媒介として他者に語らせてみよう」(ル=グウィン)。

 学生の頃、創作のゼミで小説と称して色々書いてみた私の原稿を読んでくれたひとたちは私に言った。「あなたの作品には、あなたしかいない」。小説家としてデビューしたあと、私の書いた原稿を読み、私に書き直しを要求する歴代の編集者たちから言われるのも、いつも似たようなことだった。「オーケー。あなたが言いたいことはとてもよくわかった。ただしこの原稿には、あなたが言いたいと強く思っていること以外のことを感じている存在の声がほとんど聞こえてこない。それが問題だ」。

 今も私は「まじめに練習する」日々である。幸い、この練習は楽しい。仮に、理想の小説がすぐには書きあがらなくても、この練習を重ねることによって「他者の声を受け入れられる」自分が鍛えられてゆくのなら、そのこと自体だけでも、一人の人間である私が「成熟」するうえでも大いに役立つはずだと信じている。

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今日の源:アーシュラ・K・ル=グウィン著、大久保ゆう訳『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』(フィルムアート社)

「日本人」というカテゴリー

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メモ。

「私には複数のアイデンティティなどありません。ただ一つのアイデンティティしかないのです。このアイデンティティはさまざまな要素から成り立っているのですが、ただ、その〈配分〉が人ごとにまったく異なるのです。

 ところが、私という人間の成り立ちには私が帰属しているすべてが必要なのだと具体的な理由を挙げながら事細かく説明したあとでも、そばにやって来て私の肩に手をそっと置くと、こうささやいてくる人がいるのです。『あなたがそうおっしゃるのはごもっともです。でもね、自分のいちばん深いところでは、自分を何者だと感じていらっしゃるんですか?』

 そんなふうに長年しつこく訊かれ続けてきました。これまでは笑ってやり過ごしてきました。しかし、さすがにもう笑えません」(アミン・マアルーフ)。

 さすがにもう笑えない。百歩譲って、帰化しなければ「投票」も「立候補」もできないのは、まあ理解できなくもない。けれども「国民の皆様方の税金をどう配分するか」とか「安全保障上重要な政策を決定する」とかあるから、「国会議員」は「どこの国籍を持っていたかオープンにしなければならない」。なぜなら「過去に別の国籍を持っていた者」は、「日本人」にとってポジティブな選択をするとは限らないから……という発想はまったく笑えない。ほんとうに笑えない。

 私は日本国籍はないけれど、この社会の一員なのだと自分を思っている。日本人だらけのこの国で、自分を含むこの社会にとってよりポジティブな選択をしたいといつも思っている。正直、私のように考えている外国籍の住民はとても多い。国会議員になるために帰化しているならなおさらだ。

 帰化をしても、過去に別の国籍を持っていたのなら厳密には「日本人」でない。

 「日本人」のカテゴリーをめぐる、この発想の古さときたら。

 いったい何が「維新」なの?

 『アイデンティティが人を殺す』の著者、アミン・マアルーフはこの本をこんなふうに締めくくっている。

「私の孫が大人になったとき、この本を偶然、家族の書棚に見つけるのです。埃をぱんぱんと払い、ぱらぱらっと目を通したあと、すぐにそれを埃っぽい元の場所に戻すと、肩をすくめて、こんなふうに驚くのです。へえ、おじいちゃんの時代には、まだこんなこと言わなきゃいけなかったんだ」。

 いつまで同じこと言わせるの?

 

今日の源:アミン・マアルーフ著、小野正嗣訳『アイデンティティが人を殺す』(ちくま学芸文庫、2019)

選挙と家族

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「河畔で出会った人びととの無駄話」や、「編み物」「子供の世話」や「食事の準備」をする女たちを横目に「釣り竿を握って、コルクの浮きが水面で揺れ動くのを監視することで時間を浪費したくなかった」ディディエ・エリボンは、「この種の暇つぶし」を嫌悪していた。そんなことをするぐらいなら「本を読みたかった」。そして、「自分らしい自分を再創造するためには、何よりもまず自分自身を[家族から]切り離し」、一族で初めて大学に進んだ。そんなエリボンによる「自身の半生を浮き彫りにした」エッセイ『ランスへの帰郷』には、こうある。

「社会的な視点からは、私の文章表現のすべては――私自身にとっても、私の読者にとっても――私が本書に記述して再現に努めているようなタイプの人生を生き続けている階層の人びとの外部に位置しているのは、彼らが本書の読者となることはほとんどありえないことを、私は自覚している。労働者階級の状態について書かれる機会は少ないし、書かれるとしてもたいていの場合、作家は労働者階級出身であっても、そこから抜け出せたことに満足している」。

いわゆる「ファーストジェレネーション」としての葛藤を赤裸々に晒すエリボンの「自伝」は、この日本でもエリボンの本をすすんで読みたがる側にいる者たち――私のような――にこそ、叩きつけられなければならないはずだ。何しろ、自分らしい自分を「再創造」する過程で、自分がかつていた場所から「抜け出せたことに満足」し、さらに、そのことに優越感でも抱きようものならば、そんな彼や彼女によって書かれる文章や著作はますます、彼や彼女自身がどうにか逃げおおせた場所に留まるしかない者たちを、よりいっそう貶めることになる。

そんなエリボンは、選挙になるとほぼ当然のように「極右政党」に投票する弟たちを前にしてこう考える。

「弟たちが私に深刻な恐怖心を抱かせる党派に投票し、さらに大統領選挙では選挙民の支持を獲得する術を心得たもっと古典的な右派に属する候補に投票したことは、あまりにも社会学的必然に従っており、あまりにも(私自身の政治的選択の場合にもあてはまる)社会的諸法則に従っているように思えるので、私はいっそう当惑を感じている。こうしたことすべてに関して下すべき判断について、私は以前のような確信が持てなくなった。国民戦線に投票する人には話しかけないし、握手もしないと漠然と心に決めるのは容易だが、自分の家族がそうとわかった時、どんな反応をすればよいのか? 何を語り、何をすればよいのか? どう考えるべきなのか?」

右傾化する社会で、「自分の家族がそうとわかった時」、私(たち)は、娘(息子)として、きょうだいとして、愛する家族と何を話せばいいのか? どうすればよいのか? どう考えるべきなのか?

縁を切る?

いや、できればそうはしたくないから、いつまでも悩むのだ。少なくとも私の場合。ただし、こんな問いは今にはじまったことではない。

 

追記。この記事は必読だ。そして投票率の低さをめぐって考え続けよう。たぶん、余裕が少しでもある人にほど、そうする義務がある。

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今日の源:ディディエ・エリボン著、塚原史訳、三島憲一解説『ランスへの帰郷』(みすず書房、2020)