✍温聲筆記✍

温又柔が、こんな本を読んでいる、こんな文章に感銘を受けた、と記すためのブログ

私たちは、もっと逆らえる

メモ。「僕たちは死者を悼まなければならないけど、死者に人生を乗っ取らせてはいけないんだよ。」(デボラ・レヴィ)

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私は母のどんな姿を想像した? この小説は、主人公のソフィアがビーチに建てられたバーのコンクリートの床にノートパソコンを落とした場面からはじまる。自分のことを誰よりもわかっているのは「私の人生のすべてがすべて入っているこのパソコン」と感じていたソフィア。フルネームは、ソフィア・パパステルギアディス。幼い頃に別れたきりの父の出身地を彷彿させる姓名の持ち主であるかのじょには、両足が不自由な母親がいて、母はかのじょに君臨する。歩けない母の介護の合間に重ねられる他愛のない情事とほんとうの愛の芽生え。母に尽くすために抑え込まれた知的好奇心が絶えずくゆらす希望と絶望…去年の夏からずっと、少しずつ、ほんとうに少しずつ、読んでいた『ホットミルク』。たった今、読み終えた。「最初に読んだときに、文章と構造の美しさにあまりにも胸打たれ、この作家をどうしても日本語の読者に届けたいと思った」訳者のおかげで、極上の読書体験がかなった。

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エレーヌ・シクスーのことばから始まるというだけで、この小説にまったく心奪われずにいることは不可能だったのだが、最後の3頁に至って、あらためてシクスーのこの一文が強烈に突き刺さってくる。人生は有限だ。だからこそ、できれば私こんな小説ばかり読んでいたい。逆らってはならないと信じ切っていたものに対する、健全な逆らい方を学ぶ。そのための勇気を促してくれる、こんな小説を。著者のデボラ・レヴィのほかの本が、読んでみたくなる。願わくは、また小澤身和子さんの翻訳で。

今日の源:デボラ・レヴィ著、小澤身和子訳『ホットミルク』(新潮クレスト・ブックス、2022)