✍温聲筆記✍

温又柔が、こんな本を読んでいる、こんな文章に感銘を受けた、と記すためのブログ

ニホン語と生きている、この歴史の中の「私」を刻み続ける

メモ。「研究者は自分のあり方に自負を持てば持つだけ、そこにひそむ権力性を見ないようになってしまう。そこがまさに問題なんであって、むしろその自分にとって見えないものは何なのか、見えないものをそれでも研究の対象にしているのはどういうことなのか、それが〈サバルタンスタディーズ〉という、ある種のアポリアに立ち向かおうとしたインテリの誠実な姿だったと思う」(西成彦

f:id:wenyuju:20220405085609j:plain

 先月刊行された『旅する日本語ーー方法としての外地巡礼』(松籟社)を読み始める。編者は中川成美さんと西成彦さん。巻頭に収録されたお二人の【対談】、「旅する日本語」の射程と可能性を、まだほんの数ページ読み進めただけなのに、既にもう、みんな読んで、これを読んで、と吹聴したくなっている。越境、というキーワードを切り口に自分を包むこの世界を一から捉え直そうと心を躍らせた大学院生の頃の気持ちが蘇ってくる。思えばまさにそんな時期に、まずは図書館で借りて読み込み、のちに自分でも購入した『越境する世界文学 VOICES FROM BORDER』(河出書房新社、1992)で、私はカフカの「雑種」という作品を紹介する西成彦さんの文章を読み、思い切り感化されたのだった。

f:id:wenyuju:20220405091549j:plain

 「なかば子猫なかば子羊のよう」でありながら、その実、猫でも羊でもない生き物が「犬にもなりたがっている」というカフカのこの作品に、日本語しかできないのに日本人ではなく台湾人にしては中国語が出来ずさらには中国人からは問答無用に中国人とみなされてしまうこともある自分の「奇妙きてれつ」なありようを重ねずにはいられなかった。私も、「雑種」だなと。「雑種」でいいのだな、と。

f:id:wenyuju:20220405092344j:plain

 西さんご自身も中川さんとの対談で、このアンソロジーのことに触れられていて(カフカではなく宮沢賢治のことについてだけれど)、書棚から引っ張り出してしまった。今、眺めても錚々たる執筆陣。その後の私の愛読書となった著者ばかりだと思うとなおさら感慨深い(そういえば、このアンソロジーに収録された今福龍太さんのエッセイ「世界文学の旅程」がきっかけで、くぼたのぞみさんが翻訳なさったサンドラ・シスネロスと私は巡り会えたのだった)。

f:id:wenyuju:20220405092746j:plain

f:id:wenyuju:20220405092801j:plain 周辺からの声の数々。『越境する世界文学』は1992年の刊行。今からちょうど30年前のことだ。私が12歳から42歳になるまでの時間と思えばなかなか長いけれど、日本や台湾、韓国や朝鮮半島、中国大陸、アメリカも含めた世界全体の近現代史(歴史)にとっての30年と思えばごくちっぽけなものだろう。この時間の大きさ(長さ)と小ささ(短さ)を同時に意識することが、連綿と続く歴史の中にいる自分自身をどうにか感知する方法の一つになり得るのかも、と考えずにはいられなくなる。まずは、『旅する日本語ーー方法としての外地巡礼』をじっくり読もう。

f:id:wenyuju:20220405094530j:plain

 研究者にならなかった(なれなかった)私もまた、せめて心ある文学の作者でいたい。ちなみに『旅する日本語ーー方法としての外地巡礼』には、「在日台湾人作家温又柔『空港時光』研究ーー「内なる外地」と自他表象の連動」という論文も収められている。執筆者は謝惠貞さん。私の作品が活字になって間もない2009年の頃から私に注目してくれていたあの謝さんだ。

f:id:wenyuju:20220405095024j:plain

 この論文を私はまだ「精読」していないが、パッと読んだだけでも、私のさまざまな「試み」について、私自身が言語化していなかった部分を見事に見抜き、その価値に光を照らしてくれている。こういう「研究者」の視線を感じるからこそ、私もまたささやかな作者としてずっと緊張していられる。心ある読者は確かにいるのだから、心ない仕事を絶対にしたくはないと。これまで書いてきたものと、これから書いてゆくはずのものの間で、改めて思う。新作小説「祝宴」の発表(「新潮5月号」)を目前に控える独特の緊張感の中で、今。