✍温聲筆記✍

温又柔が、こんな本を読んでいる、こんな文章に感銘を受けた、と記すためのブログ

「冷笑ではなく希望を 怒りではなく喜びを」

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メモ。「冷笑は、何よりもまず自分をアピールするスタイルの一種だ。冷笑家は、自分が愚かではないことと、騙されにくいことを、何よりも誇りにしている。(…)冷笑家は、失望した理想主義者だったり、非現実的な評価基準の支持者だったりすることが多い。彼らは勝利に居心地の悪さを感じる。なぜなら、勝利というのは、ほぼいつも一時的なものであり、未完であり、妥協されたものだからだ。希望を受け入れることは危険だからだ」(レベッカ・ソルニット)

 一昨日、クロエ・ジャオ監督の受賞スピーチをめぐる記事を再読し、人間に本来的に備わっているはずの善なるものを信頼することの対極にあるのが「冷笑」なのだろうとあらためて思った。そして、それを、真(まこと)の名で呼ぶならば……と題されたソルニットのエッセイ集のことを思い出す。この本をはじめて手にしたとき、「冷笑ではなく希望を 怒りではなく喜びを」という帯のことばを、心のスローガンにしたいと胸が熱くなった。上述の文章は、本書に収録されているもののうちまさに「無邪気な冷笑家たち」という章からの引用。

 この章はこんなふうに結ばれる。

「無邪気な冷笑の代わりになるものは何だろうか? 起こったことに対して積極的な対応をすることであり、何が起こるのか前もって知ることはできないと認識することだ。そして、何が起こるにせよ、かなりの時間がかかるし、結果も良いことと悪いことが混じっていると受け入れることである。(…)

 無邪気な冷笑家は、世界よりも冷笑そのものを愛している。世界を守る代わりに、自分を守っているのだ。わたしは、世界をもっと愛している人びとに興味がある。そして、その日ごとに話題ごとに異なる、そうした人たちの語りに興味がある。なぜなら、わたしたちがすることは、わたしたちができると信じることから始まるからだ。それは、複雑さに関心を寄せ、可能性を受け入れることから始まるのだ」。

 希望を受け入れる危険に賭けよう。裏切られる失意や絶望を恐れるあまり「冷笑」によって身を護ることで、決して完全ではないこの世界の複雑さに目を瞑る人が多くなればなるほど、その分だけ、この世界はまた単純化する。

 ちなみにこの本、続く、「憤怒に向き合う」という章にも、心のスローガンにしたい言葉ばかり。たとえば、「怒りは憎しみとは異なる。だが、怒りをかきたてるものを傷つけたいという願望が一定のターゲットに絞られるようになったら、それは憎しみである」とか…!

 

今日の源:レベッカ・ソルニット著、渡辺由佳里訳『それを、真(まこと)の名で呼ぶのならば 危機の時代と言葉の力』(岩波書店、2020)