メモ。
「私には複数のアイデンティティなどありません。ただ一つのアイデンティティしかないのです。このアイデンティティはさまざまな要素から成り立っているのですが、ただ、その〈配分〉が人ごとにまったく異なるのです。
ところが、私という人間の成り立ちには私が帰属しているすべてが必要なのだと具体的な理由を挙げながら事細かく説明したあとでも、そばにやって来て私の肩に手をそっと置くと、こうささやいてくる人がいるのです。『あなたがそうおっしゃるのはごもっともです。でもね、自分のいちばん深いところでは、自分を何者だと感じていらっしゃるんですか?』
そんなふうに長年しつこく訊かれ続けてきました。これまでは笑ってやり過ごしてきました。しかし、さすがにもう笑えません」(アミン・マアルーフ)。
さすがにもう笑えない。百歩譲って、帰化しなければ「投票」も「立候補」もできないのは、まあ理解できなくもない。けれども「国民の皆様方の税金をどう配分するか」とか「安全保障上重要な政策を決定する」とかあるから、「国会議員」は「どこの国籍を持っていたかオープンにしなければならない」。なぜなら「過去に別の国籍を持っていた者」は、「日本人」にとってポジティブな選択をするとは限らないから……という発想はまったく笑えない。ほんとうに笑えない。
私は日本国籍はないけれど、この社会の一員なのだと自分を思っている。日本人だらけのこの国で、自分を含むこの社会にとってよりポジティブな選択をしたいといつも思っている。正直、私のように考えている外国籍の住民はとても多い。国会議員になるために帰化しているならなおさらだ。
帰化をしても、過去に別の国籍を持っていたのなら厳密には「日本人」でない。
「日本人」のカテゴリーをめぐる、この発想の古さときたら。
いったい何が「維新」なの?
『アイデンティティが人を殺す』の著者、アミン・マアルーフはこの本をこんなふうに締めくくっている。
「私の孫が大人になったとき、この本を偶然、家族の書棚に見つけるのです。埃をぱんぱんと払い、ぱらぱらっと目を通したあと、すぐにそれを埃っぽい元の場所に戻すと、肩をすくめて、こんなふうに驚くのです。へえ、おじいちゃんの時代には、まだこんなこと言わなきゃいけなかったんだ」。
いつまで同じこと言わせるの?