✍温聲筆記✍

温又柔が、こんな本を読んでいる、こんな文章に感銘を受けた、と記すためのブログ

選挙と家族

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「河畔で出会った人びととの無駄話」や、「編み物」「子供の世話」や「食事の準備」をする女たちを横目に「釣り竿を握って、コルクの浮きが水面で揺れ動くのを監視することで時間を浪費したくなかった」ディディエ・エリボンは、「この種の暇つぶし」を嫌悪していた。そんなことをするぐらいなら「本を読みたかった」。そして、「自分らしい自分を再創造するためには、何よりもまず自分自身を[家族から]切り離し」、一族で初めて大学に進んだ。そんなエリボンによる「自身の半生を浮き彫りにした」エッセイ『ランスへの帰郷』には、こうある。

「社会的な視点からは、私の文章表現のすべては――私自身にとっても、私の読者にとっても――私が本書に記述して再現に努めているようなタイプの人生を生き続けている階層の人びとの外部に位置しているのは、彼らが本書の読者となることはほとんどありえないことを、私は自覚している。労働者階級の状態について書かれる機会は少ないし、書かれるとしてもたいていの場合、作家は労働者階級出身であっても、そこから抜け出せたことに満足している」。

いわゆる「ファーストジェレネーション」としての葛藤を赤裸々に晒すエリボンの「自伝」は、この日本でもエリボンの本をすすんで読みたがる側にいる者たち――私のような――にこそ、叩きつけられなければならないはずだ。何しろ、自分らしい自分を「再創造」する過程で、自分がかつていた場所から「抜け出せたことに満足」し、さらに、そのことに優越感でも抱きようものならば、そんな彼や彼女によって書かれる文章や著作はますます、彼や彼女自身がどうにか逃げおおせた場所に留まるしかない者たちを、よりいっそう貶めることになる。

そんなエリボンは、選挙になるとほぼ当然のように「極右政党」に投票する弟たちを前にしてこう考える。

「弟たちが私に深刻な恐怖心を抱かせる党派に投票し、さらに大統領選挙では選挙民の支持を獲得する術を心得たもっと古典的な右派に属する候補に投票したことは、あまりにも社会学的必然に従っており、あまりにも(私自身の政治的選択の場合にもあてはまる)社会的諸法則に従っているように思えるので、私はいっそう当惑を感じている。こうしたことすべてに関して下すべき判断について、私は以前のような確信が持てなくなった。国民戦線に投票する人には話しかけないし、握手もしないと漠然と心に決めるのは容易だが、自分の家族がそうとわかった時、どんな反応をすればよいのか? 何を語り、何をすればよいのか? どう考えるべきなのか?」

右傾化する社会で、「自分の家族がそうとわかった時」、私(たち)は、娘(息子)として、きょうだいとして、愛する家族と何を話せばいいのか? どうすればよいのか? どう考えるべきなのか?

縁を切る?

いや、できればそうはしたくないから、いつまでも悩むのだ。少なくとも私の場合。ただし、こんな問いは今にはじまったことではない。

 

追記。この記事は必読だ。そして投票率の低さをめぐって考え続けよう。たぶん、余裕が少しでもある人にほど、そうする義務がある。

news.yahoo.co.jp

 

 

今日の源:ディディエ・エリボン著、塚原史訳、三島憲一解説『ランスへの帰郷』(みすず書房、2020)