✍温聲筆記✍

温又柔が、こんな本を読んでいる、こんな文章に感銘を受けた、と記すためのブログ

私の人生の発音不可能な部分

f:id:wenyuju:20211021064427j:image

ノーマ・フィールドが、『天皇の逝く国で』の日本語版がみすず書房から出ることになったとき、「パキスタン系英文学者サーラ・スレーリの著書で、たいへんな共感を抱いていた『肉のない日』を訳した」大島かおりさんに、翻訳をお願いしたかったと語っているのを知り、手にした本。

その島かおりさんが『肉のない日』の訳者あとがきで「(サーラ・スレーリは)東と西のはざまにある自分の位置を見さだめて、そこから〈西にとっての東〉と〈東にとっての西〉の意味の構造を問いなおす」と書いていて、くらくらと目眩がした。〈はざまにある者〉としての不安定さをむしろ強みとして、私も生かしたいと心が踊った。

f:id:wenyuju:20211021065318j:image

もちろん、サーラ・スレーリによる本文にもたいへんな感銘を受けたし、特に「私の人生の発音不可能な部分」という表現が心に優しく刻まれた。

f:id:wenyuju:20211021065917j:image

現在、小説改稿中。家族史と個人史が交錯する地点をどのように書けば、この日本語に厚みが出るのか。一つの文章のなかに複数の言語を放り込むという方法を、さも意味ありげに多用すれば、私がほんとうに伝えたいこの感触はかえって遠ざかるような。さて、どうしよう。とても悩む。それで、大島かおりさんによるうつくしい日本語で綴られたノーマ・フィールドやサラ・スレーリを再読しながら、どの道をゆくか考える。

 

今日の源:サーラ・スレーリ著、大島かおり訳『肉のない日 あるパキスタンの物語』(みすず書房、1992)