✍温聲筆記✍

温又柔が、こんな本を読んでいる、こんな文章に感銘を受けた、と記すためのブログ

感情移入できないからと言って…

メモ。「たとえば、〈感情移入〉なるものに、バフチンはきわめて否定的であった。〈貧窮化〉とすら呼んでいる。ただ感情移入するだけでは、二人(以上)が出会った意味がない。〈他者〉として出会うのでなければ、両者のあいだに新たな意味が生まれる貴重な機会がみすみす失われるばかりか、当人の自己喪失にもなりかねない、という。感情移入する者は自分に責任を持っていないというわけだ」(桑野隆)。

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より大胆に可能性を利用せよ、という文言に惹かれて購入し、のんびりと読み始めたバフチンの『ドストエフスキーの創作の問題』。バフチンを翻訳なさった桑野隆さんによる「入門書」にも手を伸ばしたら、入門書、だけあってバフチンの魅力がぐんぐん伝わる(気がしている)。曰く「よりたいせつなのは、声の複数性ではなく、作者と主人公のあいだの距離の取り方なのである」。おっしゃる通りだ。私が何かの小説やドラマや映画や漫画やコントや漫才を”面白い”と感じるときは、作者と主人公(演者、描かれる出来事etc.)のあいだの距離の取られ方が、大体、似ている気がする。おそらく私のツボなるものを刺激する何かが、その「距離」の取り方と関係しているのだろう。感情移入できないからと言って、その作品が私にとって面白くないとは限らない。感情移入だけが、ありとあらゆるフィクションの魅力の肝ではない。その理由が、バフチンを読むことで紐解けそうな気がしてワクワクするのだ。

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桑野隆さんの冒頭の文章は以下のように続く。
バフチンのこうした姿勢からは、ハンナ・アーレントの『暗い時代の人間性について』が思い起こされる。アーレントは、政治空間においては〈同情〉は〈距離〉を廃棄し、その結果〈多元性〉をも破壊するため、他者にたいする相互承認の基礎たりえないと考えていた。〈同情〉は〈連帯〉とはちがうというのである。バフチンもまた〈同情〉ではなく〈友情〉を、〈統一〉ではなく〈連帯〉を志向していたといえよう」。
友情による連帯、と、同情による統一、は、確かにまるっきり違う。統一は怖い。しかも同情によっての統一などとは。

 

今日の源:桑野隆著『増補バフチン カーニヴァル・対話・笑い』(平凡社ライブラリー、2020)