✍温聲筆記✍

温又柔が、こんな本を読んでいる、こんな文章に感銘を受けた、と記すためのブログ

わかりやすさの罪と罰

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メモ。「メディアの供給者と消費者のあいだでは、さまざまな変化の内部に存在する画一化と同一性の問題が認知されないままで放置されている。商売上の独占をめざそうと、政治的地位の専有をもくろもうと、彼らは〈わかりやすさ〉を旗印として差異を平らにならす作業に励むことで、自分たちの財を守ろうとしている(左右どちら側からであろうと)。(……)結果として供給者の搾取的主張の内容が消費者に内面化されるばかりでなく、当の供給者自身がしばしば自分で作り出した要求の犠牲になるほどである」(トリン・T・ミンハ

 トリンは続ける。「当の供給者自身が自分で供給したものの犠牲になるような状況では、生産者と消費者を明確に分けることなどできない」。気をつけろ。読者(鑑賞者、視聴者…)を「信頼する」ことと、読者(鑑賞者、視聴者…)に「媚びる」ことの区別がまともにつかないようでは、わかりやすさの「犠牲」になるのは他でもないあなた自身だ。いや、あなたが「犠牲」になるだけではない。あなたのせいで、あなたとよく似た境遇の、あなたではない人たちとあなた自身の間を隔てる境界線を曖昧にしてしまう恐れすらある。気をつけろ。ただし、これはあなただけの責任ではない。あなたや私をモデルマイノリティ化しようと企むマジョリティー側の責任の方がずっと大きい。だからってあなたに何も責任がないわけではない。

 トリン・T・ミンハを再読するたび、かつての私自身に宛てて、今の私の経験に即して身をもって、言い聞かせたくなることがずるずると出てくる。

今日の源:トリン・T・ミンハ著、小林富久子訳『月が赤く満ちる時』(みすず書房、1996)