✍温聲筆記✍

温又柔が、こんな本を読んでいる、こんな文章に感銘を受けた、と記すためのブログ

反「美しい魂症候群」のために

メモ。「悪の世界が外側にあり、善良で正しく純粋無垢な〈私〉がそれと対決しているという態度にとらわれている限り——それをモートンは、〈美しい魂症候群(beautifulsoul syndrome)〉と名づけるのだが——、純粋無垢で正しい〈私〉は、その状態のままで固定され、停止してしまう」(篠原雅武)

どうしてなのかと問われると、さあ、なんとなく、としか言いようがなくてほとほと困ってしまうようなことって、いくらでもある。たとえば私は水天宮二丁目から日本橋箱崎町のあたりを歩いていると、とてつもなく落ち着くのだ(そういえば「住むの風景」でも、そのことを掘り下げてみようとしたのだった。答えはいまだ出ていないけれど)。

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ハコザキ、ハコザキ。子どものころ、父と母がよくそう言った。タイワン、に行くのに、我が家はいつも、ハコザキ、を経由した。私が、東京のなかでも、特に水天宮二丁目から日本橋箱崎町のあたりに妙に心惹かれるのは、その記憶も関係している。だからこの頃は、用もなく、東京シティエアターミナルに行くことがある。すると、必ずとてもいい一日になる。どうしてなのだろう。本当に、ただ、なんとなく。テジュ・コールならば、こういう感触を素晴らしい小説に仕立てるのだろう。

ところで、私がテジュ・コールにのめり込んだ一つのきっかけでもある『人間ならざるものの環境哲学 複数性のエコロジー』。篠原雅武さんがこの本で引用していたティモシー・モートンの言葉がとても好きだ。

「日本語のなかの何処かへ」の最終回の冒頭には絶対この箇所を引用したかった。

ティモシー・モートンの思想を、ほんの断片でも自分が理解しているとは正直まったく思えないけれど、それでも、時々、篠原さんのこの本をめくってみては、モートンの”哲学”に触れていたくなる。そして、どうか自分は今、美しい魂症候群(beautifulsoul syndrome)、に陥っていないように、と思う。どうか現在の私が、私(たち)こそが純粋無垢で正しい、という態度で生きていませんように、と思う。どうして? 私は、よく知っている。私を、”正しい”と称えることで可能な限り楽をしたい人たちと凭れ合ってるときの私は、”楽”ではあっても、ただの一度も”愉快”ではいられたことがないから。

今日の源:篠原雅武著『人間ならざるものの環境哲学 複数性のエコロジー』(以文社、2016)