メモ。「日本敗戦の過程を、複数の〈始まり〉の可能性を折り畳んだ時間として読み直すこと。それは(…)帝国日本の敗戦が誰にとっての・いかなる敗北だったのかを再審する作業を通じて、一九四五年八月十五日を起源とする『建国神話』それ自体を脱構築することである。そして、徒に時間を浪費し続けたことに対する痛切な反省とともに、日本社会の脱=帝国化、脱植民地化の作業をリスタートさせることである」(五味渕典嗣)
「敗け方」の問題。とても興味深いタイトルのこの本の帯の文章がいきなり突き刺さる。「帝国の記憶を選択的に忘却しつつ、今も旧宗主国民としての自意識をあからさまに保持し続けている現代日本の原点を見つめ直す」。この帯文だけでも、「敗け」という戦後日本の「始まり」を問い直すという営みの重要さが伝わってくる。と同時に、「玉音放送」から始まる台湾の”戦後”映画『悲情城市』と向き合った際の緊張が快く蘇る。歴史は永遠の現代史。近現代史なら尚更だ。ちょうど先日から読み始めた『歴史としての戦後日本』と併せて読んでゆきたい。
今日の源:五味渕典嗣著『「敗け方」の問題 戦後文学・戦後思想の原風景』(有志舎、2023)、アンドルー・ゴードン編 中村政則監訳『歴史としての戦後日本 上・下』(みすず書房、2001)