✍温聲筆記✍

温又柔が、こんな本を読んでいる、こんな文章に感銘を受けた、と記すためのブログ

小説のように

今日は中村和恵さんの『日本語に生まれて 世界の本屋さんで考えたこと』(岩波書店、2013)を、読んでいた。曰く「日本語でわたしたちは残念ながら、日本以外の国の人々に語りかけることがほとんどできない。異なる言語で語りかけなくてはならない。翻訳されなくては、どうしても一本の橋が仲介しなくては、伝わらない。異なる言語は異なる語りの様式、異なる思考の様式を強いる。しかし、歌い物語ることばは、成文法や鉄とは違い、やわらかい。曲げられる。語る側と聞く側/読む側の、両方に準備体操は必要だけれど、縦書きと横書きの間に橋は架けられる」。日本語以外でわたしは残念ながらまともに本を読むことができない。だからこそ、いつも翻訳家たちのおかげで、日本語ではないことばで書かれた小説を読んでいる。そう思っていたところ、なんと、あのアリス・マンローの訃報が。

横書きから縦書きへ。日本語に生まれなかったものの、日本語に棲みつくことになったわたし。マンローのような作家がいる現代を自分も生きていられる幸福を何度も味わった。そう思えるのは、小竹由美子さんが架けてくれた「橋」があって、その上を心地よく渡ることでマンローの世界に浸ることができたからだ。これからも”ひたむきに書き続けてきた”アリス・マンローの著作を愛読し続けます。ささやかながらその冥福を祈りつつ。

この本をはじめてワクワク読んだ年のノーベル文学賞がアリスマンローだったんだね。



 

よりよい〈潜在的な現実〉を、〈今〉や〈ここ〉に手繰り寄せるために……

メモ。「現実とは〈本当のこと〉ではない。それは現時点においては最有力な〈フィクション〉である、というにすぎない。そしてフィクションとはただの〈嘘〉ではないし〈つくりごと〉ではない。それは、潜在的な現実なのだ。だから強いフィクションは、現実をおびやかす。現実に取って代わる可能性を、常に突きつけているからだ」(岡田利規

『わたしたちに許された特別な時間の終わり』と題された小説集に束ねられた2篇「三月の5日間」と「わたしたちの場所の複数」。相変わらず私は、相変わらず私も、「わたしの場所の複数」について、いつも考えている。「潜在的な現実」として、”この”現実をおびやかし、よりよい、別なる現実を、”ここ”や”今”に手繰り寄せるための「強い」フィクションを求めている。だからこそいつも、岡田利規さんの試みには、鼓舞される。今回、ご縁あって、チェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム山』が東京公演(2024)、クラウンドファンディングにコメントを寄せることができて、とても光栄だ。

motion-gallery.net

 

 

 

「残念だけど、この国にはまだこの歌が必要だ」

最近、あるささやかなエッセイ「創作の中で煌めく〈真実〉」を書いた(もうじき発売の「新潮120周年記念特大号」に載る予定です)。

最近、ある大きな大きな場所の片隅で好きなあの歌を聴いた(まさか、また聴けるとは思わず涙した)。

120年前からずっと、この国にはこういう歌が必要だった。残念ながら、今もまだこの歌がこの国には必要だ。

2016年12月31日朝日新聞全面広告より。

続く。どこまでも続く。この生命力。血が泣いている。たとえ頭の中に絶望の花が咲き乱れても、今も昔も同じ浮世の花盛りを想像しながら、ありとあらゆる一瞬の中で煌めく〈真実〉を求めて、小説を書き続けたいと思う。許される限り、ずっとそうしていられたらいいなと思う。

完璧な装幀

メモ。「手紙を最初に読んだときには、遠い親戚や友人に何通も発送されたうちの一通、死亡通知に思えた。ところが、今読むと、明らかに彼女だけに宛てられたものだ、文のひとつひとつが彼女のために慎重に考え抜かれている。あまり書きすぎないように書き手がずいぶん苦労しているのがわかる、そしてまた同時に、許されると思える以上のことを書いてしまっていることも」(エミリー・ラスコヴィッチ『アイダホ』より)

傑作、としか言いようがない。要約、などできるはずもない。そういう長篇小説だった。読了してみて、しみじみと、なんと完璧な装幀だと思う。とりわけ、この帯を飾る、たった数行のこの文章ときたら。この小説について、ほとんど完璧にあらわしていて、この小説に打ちのめされたばかりの一人として、もはやほかに何も付け足したくなくなる。「記憶は消えても、悲しみは消えない」。それなのにこの「苛烈で美しい家族の物語」の読後感は、清らかであたたかい。まったく、なんという小説なのだろう。ため息が溢れてしまう。やっぱり小説は素晴らしいと芯から思わされる瞬間の幸福感をもっと味わっていたくて、最後の十行をもう数回読み直している。ドキドキしてくる。

今日の源:エミリー・ラスコヴィッチ著、小竹由美子訳『アイダホ』(白水エクスリブリス、2022)

「私たちはユニークな存在である」

メモ。「花瓶を割ってみなさい。その断片を再び寄せ集める愛は、それが完全だった時にその均整を当然と受け止めていた愛よりも強いのです」(ウォルコット)。

中村達さんのご著書『私が諸島である』で引用されていた、ノーベル文学賞受賞時のウォルコットのスピーチに痺れている。ウォルコットは、「民族的同一性を保っている(と思い込んでいる)旧世界の人々が、カリブ海を〈文法家が方言を見るように、都市が地方を見るように、帝国がその植民地を見るように〉見ることを批判する」と中村さんは書く。

「〈海外phD〉という〈海外〉が欧米を意味していることに、いつも嫌気がさしていた」と語る中村さんは、日本人として初めて西インド諸島大学モナキャンパス英文学科の博士課程に在籍し、優秀博士号を取得された方。そんな中村さんが「欧米の知のみが唯一のスタンダードではない」という信念――真実といった方がいいだろう――に基づき、「カリブ海思想には独自の歴史がある」と伝えるために、名だたるカリブ海思想家たちの著作やその珠玉のことばを織り込みながら紡ぐ魅惑的な本。頁をめくりながら、ウキウキとしてしまう。ウォルコットもだけれど、ウォルコットノーベル賞受賞スピーチにある「花瓶の比喩」を高く評価するトレス=セイランによる「存在論的不純性」(”ontological impurty”)という表現も、最高に素敵だなと思う。中村さん曰くこれは、「純粋な出自を称えたり同一性を優遇したりするのではなく」、「あれでもなくこれでもない、ということを可能にする一種の存在論的弾力性」のことだそう。

存在論的不純性、存在論的弾力性。
ああ、私は、なんという概念を知ってしまったのだろう?胸がドキドキしてくるほどだ。

またべつの頁を捲ると、カリブの思想家たちの活動とは「西洋中心的知識体系への抵抗」であって、そのことによってこそ彼らは、「自身にかけられた呪い」を解く物語を創るのだとある。解呪の詩学。私はカリブ海についてほとんど何も知らない。この本を中村さんが書いてくださってよかった。中村さんがこの本を書いてくれなかったのなら、きっとずっと気づかずにいたはずの、私にとってすごく大切なことがこの本にはたくさんある。この興奮を私のものだけにしておくのはもったいないとうずうずしてくる。それでちょっと長いけれど、「出会いを押し進めるために 相互歓待」と題された第五章で紹介されていたアール・ラヴレイスという作家が、アーティストにとって最も重要なこと、として語った内容を引用します。

メモ。「だが私たちは若い。私たちは作り上げていかなければならない。もし否定的で自傷的な〈現実〉があるなら、私たちはその〈現実〉を変え、また別の現実を作っていかなければならない。私たちは自分の力と美を探し出さなければならない。私たちは希望を推さなければならない。自虐や自己中傷、自己欺瞞といった残虐で否定的な〈文化〉に、私たちはあまりにも長く虐げられてしまった。自分の望ましくない特性をあまりにも長く演じることになってしまった。その特性が存在するのは、歴史と特異な状況のせいである。それが真実であるのならばの話だ。真実とは何か? もしこれが真実なら、私たちはこの〈真実〉を拒絶しなければならない。アーティストは肯定的で希望にあふれる価値を見つけ出す試練を買って出なければならない。その価値は、彼の感受性とヴィジョンが見ることを可能にし、彼の才能が表現することを可能にするのである」(アール・ラブレイス)

カリブ海から離れた、東アジアの、タイペイで生まれて、トーキョーの片隅に住みつき、ニホン語で生きてるタイワン人の私も、この「試練」を買って出たい。力が湧いてくる。


今日の源:中村達著『私が諸島である カリブ海思想入門』(書肆侃侃房、2023)

戸惑いながら、絶望に抗うというかたちの「希望」を保つ

メモ。「此岸と彼岸に亀裂がはいっているようにも見えるし、蛇のようにぐねぐねの、寒々しい途方もない道のりの先に、すでにこの世を去った人びと、これから生まれ来る人びととの出会いを幻視し、もうひとつのこの世が浮上する。そんなことを想ってみた」(山内明美)。

うつくしい表紙に息を呑む。背筋をすうーっと伸ばしたくなる、凛とした佇まいの装幀の写真は志賀理江子さん。奥付けに添えられた文章によると撮影地は北釜海岸だそうだ。「海に雪がふる日、波打ち際には蛇の道があらわれる/その先を歩いてゆくと、もうここにはいない、近しいあの人たちに会える」。『こども東北学』の山内明美さんによる最新作『痛みの〈東北〉論 記憶が歴史に変わるとき』は、「2011年3月11日ー12日」を「とば口」にして綴られた文章。

「あの日」以降、発表年順に束ねられたこの本の一篇一篇を、これから少しずつ読んでゆこう。

私の特別な存在——台湾”新二代”作家・陳又津——

あるむの台湾文学セレクションシリーズ。最新刊は、陳又津さんの長篇小説『霊界通信』!

1986年生まれの陳又津さんは、私にとって、今、最も敬愛する現代作家のお一人です。日台作家会議での登壇や、高山明氏の演出によるヘテロトピアシリーズで執筆を共にしたご縁もあって、シンポジウムやアートフェスティバルのたびに、才気溢れるかのじょのテキストに(翻訳を通して)触れるたび深く感動してきました。そんな陳又津さんの長篇小説がいよいよ一冊の本となって、日本語の世界にもやってきた!(翻訳者は日台作家会議の際に何度も通訳をつとめた明田川聡士さん)。

この朗報に、心躍らずにはいられません。

www.arm-p.co.jp

未読の必読書が傍にいっぱいあるので、届いたばかりの『霊界通信』をめくるのをグッとこらえる。きっと、一行でも読んでしまったら、夢中になってしまうだろうから!

陳又津さんが「準台北人」なら、台北生まれでありながら日本の”第二代”の私は「準東京人」なのかもしれない? そんなことも考えさせてくれるからか、私にとっての作家・陳又津はとても特別な存在なのです。