✍温聲筆記✍

温又柔が、こんな本を読んでいる、こんな文章に感銘を受けた、と記すためのブログ

わたしたちはことばを学ぶとき、もっと「幸せ」でいていい。

「”正しさ”や”努力”にとらわれない、言語学習サイコウ。」ああ、私、これだ。こういうことを、誰かに言って欲しかったんだ。ずっと、ずーっと昔に。「ことばを学ぶ」ことについて、こういうことを誰かに教えてほしかったんだ。

松田真希子さんの『ことばを学ぶとはどういうことか——外国語学習の本質』(ちくま新書、2026)。読了前から直感する。これはわたしの新しいお守りだ。今だって励まされてしまうけれど、かつての悩めるわたしに、誰かがこういうことを教えてくれたなら、どんなに救いになっただろう、と思うことがたくさん、ほんとうにたくさん、この本には書いてある。

「せっかく親が外国人なのに日本語しかできないなんてもったいないね」「あなたなら中国語ができるのは当たり前でしょ」「なんでそんなに中国語が下手なの?」「日本語がお上手なんですね」。十四歳や十七歳や二十歳や二十二歳あるいは三十歳の頃の私のそばに、この本がすでにあったのなら。そして、この本の筆者である松田真希子さんのような先生と出会えていたなら。
きっとわたしは今とはぜんぜん違う小説を書いてきただろう。”呪い”を解くには、わたしはとりあえず小説を書くしかなかった……わたしは、わたしを育んだすべての言葉でできている、それぞれの言葉が常に”正しい”状態でわたしに降りかかってきたわけではなくとも……そう謳うことでようやくわたしは”武装解除”に至った。台湾人みたいに中国語が上手に話せないし、日本語しか話せないのに日本人じゃないと言われることも相変わらずあるけれど、わたしはわたしを育んだすべての言葉に堂々と愛着を抱いているし、時々それを学ぶことを楽しむ(ぜんぜん上達しないおかげで永遠に楽しめる)。

それでいいんだよ、とこの本はわたしの背中を温かく押してくれる。
どんな言葉も、できないよりは、できた方がずっといい。母語——も、たった一つきりの言語でない場合もあるけれど——とは別に、そういう言葉が、誰にでも一つ以上あっていい。”ネイティブ”みたいにならなくちゃと思わなくていい。”正しさ”に囚われず、むしろ”優しさ”が目的の言語学習サイコウ。この本が、それをもっとわたしに信じさせてくれる。この本は何しろ、ことばを学ぶことは、”正しくない”言葉が溢れるこの世界の多彩さを想像することであるとも教えてくれる。

「もっと自由に、幸せに〈学ぶ〉ために、〈ことば〉との関係を考える」機会が、悩めるあなたにも訪れますように!💐