✍温聲筆記✍

温又柔が、こんな本を読んでいる、こんな文章に感銘を受けた、と記すためのブログ

「わたしが間に合わなかった時代」に招き寄せられる

 メモ。「それはわたしが間に合わなかった時代だが、その時代は絶えずわたしを招いている」(鍾文音

 

 昨年の今ごろ、楊翠著『少数者は語る』の書評を書く機会に恵まれた。

 

 📚「家」をめぐる独自で多彩な世界 - 🕊温聲提示🕊

 

 冒頭で引用した鍾文音の言葉はこの本で知った。今また、その部分を読み直す。

「文化論述上の権力の場と政治生態の権力の場は、実は二枚の異なる構図だが、アイデンティティにおいて〈政治的に正しくない〉ことを自覚する論者は、逆にいつも主流のメディアの寵児である」。

 この「認識」を、「発言力」が備わりつつある「少数者」の、それもフィクションの作り手であるならば、決して忘れてはならないとつくづく思う。作家として発言できる、発言が許されるという状況にいられるのは、まぎれもなく権力なのだから。そのため、「少数者」としての発言を「多数派」の人々から望まれる作家こそ、何らかの「文化論述」を行うときには、常に注意を払わなければならない。要するに、「正しいのは私だ」といった態度からは最も距離を置かねばならない。少なくとも私は、「ああ、あなたの境遇をめぐるあれこれを全然知りませんでした。これまで知らずにいられたことが恥ずかしくなりました。本当にごめんなさい」といった「感想」しか引き出せないようなものを、ただの一文字も綴りたくない(そう言わせるものしか書けなかったとしたら、それは作家としての私自身の責任でもある。あるいは致命的な才能の欠如)。

 だからこそ私は、他人の中にそのような態度を少しでも見出すととたんに嫌悪感をもよおす。私は、みずからの「正しさ」を信じて疑わないといった態度を嬉々として前面に押し出すような「少数者」の「権力者」たちが、結局のところ、「多数派」と「少数者」の「分断」を促しているとしか思えないことがよくある。さらにその態度が、文学にとどまらず芸術一般の「軽視」から成っていると思えば、なおさら腹立たしい。文学や芸術を「(少数派である我々と違って愚かな)多数派を教化するための道具」としか思っていないらしい人たちとは口もききたくない。私が愛する文学や芸術はもっと多彩で、異様で、とてつもないものなのだ。いや、そういうものであるからこそ、私は文学や芸術を愛している。

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 さて。映画『悲情城市』の完成日が、蒋経国が死去し、李登輝が総統に就任した日と同日だとはじめて知ったのも、ちょうど1年前の今の時期だった。この事実を知ったとき、まさに自分が「間に合わなかった時代」に招かれている気がすると感じて慄いた。書けば書くほどに私は私の「間に合わなかった時代」に招き寄せられる。自分について、家族について、母国と母国の関係について。書こうとすればするほど、「歴史」が私を迎え撃つようだ。安心するな、とばかりに。ルーツ?アイデンティティ? 自分自身のためにだけなら、そんなもの、とっくに見つけてる。私が今探究したいのは、もっと自分からはるか遠く離れたものだ。

 

今日の源:楊翠著、魚住悦子訳『少数者は語る 台湾原住民女性文学の多元的視野』(草風館、2020)