✍温聲筆記✍

温又柔が、こんな本を読んでいる、こんな文章に感銘を受けた、と記すためのブログ

「自分と自分が大事にするものの居場所」のために

メモ。「刻一刻と光は姿を変え、数えようのない青の色みを見せながら空は遠ざかってゆく。そして太陽が去ってゆく先にまた別の色が生まれようとしている。ほんの一時目を離せば見逃してしまうほどに目覚ましく姿を変える、名指す言葉のない色たち。時として、色の名前はそこにないはずのものを閉じ込める檻となる。どんな言葉でもそんなことはよく起こる。女、男、子ども、大人、安全、強さ、自由、真実、黒、白、富、貧しさ。私たちは言葉なしでは生きられない。しかし、せいぜいその容れ物からあふれ出すものや漏れ落ちるものが永遠に尽きないと知りながら言葉を使うのだ。そこには常に逃れゆくものがある」(レベッカ・ソルニット)

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ソルニットの自叙伝、『私のいない部屋』。刊行されてすぐ心踊らせながら手にしたものの、実際に読み始めるまで妙に勿体ぶってしまった。敬愛する著者による待望の本ほど、私はそうなってしまう傾向がある。年を跨いで2022年になって、この本を訳された東辻賢治郎さんのインタビューも含む板垣麻衣子さんによる以下の記事を読んで、今、ソルニットがこの世界にいてくれてよかったとつくづく思った。おこがましい自惚れと自覚しつつ、私もまた自分のことを、ソルニットの「後から来る」者のささやかな一人だと思っている。であるからこそ、ソルニットが「障害物」と名指すものに何を阻まれ、またどんなふうに飛び越えようとしてきたのか、その軌跡を辿るだけでも力が湧くのだ。

 

私が「声」をみつけるまで 米作家レベッカ・ソルニットさん:朝日新聞デジタル

 

『私のいない部屋』でソルニットは、「作家になること」とは「世界を覆っているさまざまな物語に意識的になり、それが自分の役に立つかどうか考え、自分と自分が大事にするものの居場所のために何か自分なりのヴァージョンをつくる術を知らなければならないということだ」と書いている。「自分と自分が大事にするものの居場所のため」の「何か自分なりのヴァージョン」。

私にも(誰にでもそうだろうけれど)、「自分と自分が大事にするもの」がある。考えてみれば私は、この日本という国の一員として不当に軽んじられる「疎外感」を知らずにはいられなかった立場だけれど、それと同時に、そのことによって「実力」以上に重んじられる方の負担もまた正直よく知っているつもりである。要するに私はしょっちゅう、「なぜ(私たちに対して)そんなに怒るの?」と「どうして(私たちのために)もっと怒らないの?」の間を行ったり来たりしている。その「間」で平常心を保つためにかなりの労力を費やしている気がする。最近になっていよいよ、この「両極」に居させられる時のリアリティーを肌身でわかっていることが私の強みなのかもしれないと思えてきた。そしてそれが作家としての私の「武器」でもあるのだとも気付きつつある。きな臭さがまとわりつく、武器、という表現を使うのをこの文脈では遠慮しない。なぜなら私にとって、私自身の健やかさを保つことは、まさに一種の「闘い」に値するからだ。それは意識的にせよ故意でないにせよ私を「傷つける」出来事やことがらとの闘いなのである。たぶん私は、自分自身に対してはもちろん、自分を取り巻くこの世界に対しても誠実でいようと思うなら、どう転んでも闘わなければならないのだろう。ただし、この闘いは、ヒロイックな陶酔からは、遠く、遠く、離れたものでなくてはまったくもって意味がない。ソルニットの存在は、そんな私の大いなる指針の一つだ。書くという行為による「行動」を、自分も継続しなければならないと励ましてくれる。

……と思っていたら、発売間もない「群像」最新号にソルニット特集が! 

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この三方のお名前と、それぞれのタイトルが記された目次を読んだだけで、すでにクラクラと嬉しくなる。心して読まなければ。

今日の源:レベッカ・ソルニット著、東辻賢治郎『私のいない部屋』(左右社、2021)